遺句集じゃダメなんですか
現代俳句協会青年部勉強会「句集のゆくえ」雑感
西原天気
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「え? いまのボクでもカドカワから句集が出せるんですか? オカネさえ払えば」と、24歳の若者が訊くので、びっくりした。
自費出版とは、まさにそういう意味だと思うが?
じゃあ何か? カドカワには、クオリティやらキャリアについて審査のハードルのようなものがあって、ふらんす堂や邑書林ほかにはそれがないとでも言うのか?
違うと思う。
句と資金さえあれば、句集は出る。逆にいえば、句集を出すには、句も必要だが、資金が必要だ。
ついでにいえば、句はあっても、資金がない、あるいはそんなことに自分のカネを使う気がなければ、句集は出ない。
というわけで、現代俳句協会青年部勉強会「句集のゆくえ」に出かけ、話を聞いてきた、そのことをここで書くわけですが、話の流れというだけの理由で、まずは、制作費の話。
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第2部のパネリストは最近句集を出された山田耕司さん(句集『大風呂敷』)、関悦史さん(句集『60億本の回転する曲がった棒)、中本真人さん(句集『庭燎』)のお三方。制作費をかなりの部分、包み隠さず公表された。出版に到る経過・形態などは三者三様なのだが、共通していたのは、一般に思われるよりもかなり安価。
歌人の田中槐さんのブログにもこうある。
(…)三人ともかなり相場よりは安い金額で出せているようで、まあ、どこにも抜け道があるということなのか。
http://ameblo.jp/katamaritamashii/entry-11200525419.html
金額をここで私から申し上げることはしないが、このお三方のケースと歌集の相場とは、スズキアルトとトヨタカローラくらいの差(いずれも下位モデル。為念)がある。ほぼ倍の開き(当然ながら造本やページ数・部数によって費用は違う)。
ただ、「どこにも抜け道があるということなのか」という部分は、ちょっと違っていて、抜け道などはなくて、紙代・印刷代・製本代の合計の相場がだいたいあって、そこに出版社の粗利を乗せても、ほぼスズキアルト並みに収まるはず。
(ここで、歌人=富裕層、俳人=貧困層というまとめ方はまちがっている。偶然だからしかたがないが、パネリスト3名のケースが低い水準に偏ってしまった。カローラくらい費用のかかる句集はざらにある)
(ちなみに私も昨年10月、自費出版で句集を出した。176頁・500部。かかった費用は、アルトとカローラの間で、アルトに近い、であった)
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オカネの話は実際のところ多くの人の関心事だと思うが、そればかりだと少々下品だから、話題を変えよう。
第1部は、橋本直、中村安伸、宮本佳世乃3氏の話。
橋本直氏は、個人の自選による句集(現在の形態に近い)の発生を明治期に遡り、歌集・詩集と比べて10年以上遅れていたことを指摘。個人句集を重視しない心性・環境が江戸以来あったことが大きな理由ではないかと推論。「文台おろせば則反古」(芭蕉)が連句の伝統。今で言えば「作り捨て」を粋とする伝統が俳句にはあるのかもしれない。
これは美しい伝統です。
自分の作品!作品!と気張りまくり、それが後世にどう残っていくのか、なんて大仰なことを考え、それに腐心するのは、どう見たって「俳句的」ではなく、あまり格好のよいものではない。
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現在多く刊行される「自選句集」の「自選」という部分には、但し書きが要る。結社所属の場合、第一句集は師(主宰)の選を仰ぐのが原則らしい。
そういえば、ページのはじめのほうに、師(主宰)による「まえがき」的な一文が入る句集をよく目にする。忖度するに、この一文は(とりわけ第一句集の場合)、「この句集の作者は、どこの馬の骨ともわからない輩ではなく、初心者でもない」という意味だ。保証のようなものだろう。「私ンとこで一所懸命俳句の勉強に励み、他人様に見せても恥ずかしくない句がある程度溜まったので、このたび第一句集を上梓することと相成った。ひとつよろしく」というわけ。
ちなみに私は、この「まえがき」は読まない、飛ばす(一冊を読み終えてから読むことはあるが)。読者である私は、句集(そこに収められた句)と出会いたいのであり、いくらエラい先生とはいえ、自分とは別の読者の「解説」や「選句」を、句集を読む前に読む気には、ぜんぜんなれない(句集の最後の位置にしませんか、あれ)。
ついでに言えば、師(主宰)による選句と寄稿への謝礼は、ケースによって結社によって、また支払う側の意識や事情によって、そうとう大きな差があることも、この「勉強会」(含:二次会)でわかった。
具体的な金額はここで申し上げないが、八王子駅からバス10分・木造6畳+1K・ユニットバスと下北沢駅徒歩8分・4LDKマンションくらい、差がある。
後者の場合は、なかなか大変だ。不動産屋とちがって、結社に入るときは、そんな数字はどこにも書いてないから。
って、また、オカネの話に戻っとる。
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中村安伸氏は、電子書籍による句集出版を取り上げ、そのメリットを製作・流通コストの削減、余剰在庫・絶版の回避、紙媒体の限界にとらわれない表現、デメリットを、機器の必要、複製の不可避とまとめ、場合によっては、メリット・デメリットが逆転すると指摘。つまり、例えば、製作が容易であることが「読まれること」を阻みもする(「苦労して作った句集だから読んでやろうじゃないか」という紙の句集への労りとは逆の心理)。また、複製を防ぎにくいという特徴は、「多くの人に読んでもらいたい」作者にはメリットとして働く。
ちなみに人名句集「チャーリーさん」という本を紙と電子の両方でつくった経験から言うと、電子書籍にオカネを払ってまで読む人は少ない(それが数百円と安価でも)。
電子書籍については、関悦史氏に示唆深い発言があった。曰く、既存の権威が句集と認めれば、電子句集は定着する。逆にいえば、そうならないうちは一般の句集とは同列に論じられない。俳句総合誌に電子句集の書評が載るようになれば(現時点では見たことがない)、あるいは例えば田中裕明賞の対象が電子句集にまで広がれば(現時点ではそうではないと思う)、句集の電子出版を取り巻く状況は一変するだろう。たしかに。
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宮本佳世乃氏の「いま句集とは?」の報告では、中村安伸氏の一文「句集を作っていない者は俳人としてまだ生まれていない」を出発点にしたせいで、やや茫洋と、またロマンチックになりすぎた。この一文のあとに「そのように考えることは私にとってたいそう魅力的である」と続くからには、この把握がやや夢想的なのであり、実際には、句集を出そうが出そまいが、俳人は俳人なのだ(自称他称にかかわらず)。同時に、句集が出たからといって、一人前になるわけでも、扱われるわけでもないと思う。
宮本氏の報告で興味深かったのは、句集を対象にした賞が年間29を数えるという部分。どう調べ、どうカウントしたか詳細は聞き漏らしたが、ほんとうだろうか。この「29」という厖大な数字は。
句集が毎年たくさん出ているのは知っている。500点か1000点か。わからない。だとしても、29という数字は驚きべき多さだと思う。
余談、また二次会で仕入れた情報だが、よく知られる蛇笏賞をもじって「イグ蛇笏賞」を設けてはどうかとうアイデアは笑えた(「イグ」の意味がわからない方は、イグノーベル賞:wikipediaを参照)。
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全体の感想を言うと、第1部の報告、第2部のディスカッションを通して、句集を出す側の事情に焦点が当たりすぎて、「読まれること」を含めた事象として全体への言及が少なかったように思う。個別ケースの具体的な事情が伝わる面白さはあったものの(例:はじめに触れた制作費の話など)、それはあくまで個別。
何を思い、どう考えて、どんな句集を出すかは、作者個別の問題だ。そこにユニークネスを求める方向、ユニークネスの可能性を探る方向でもいいが、それならそれで、旧来の制度と比較する必要もあろう。結社から出てくる句集にまつわる制度的な側面を押さえておく必要がある。
句集の存在がどのように知られ(あるいは知られず)、どう読まれるのか(あるいは読まれないのか)、欲を言えば、句集というイベント/慣習/制度を、流通・消費を含めて動的に捉える視点があってよいのではないか。
あるいは、逆に、「句集」と大きく網を打つのではなく、また「ゆくえ」とロマンチックに未来を見晴るかすのではなく、自費出版が生まれる契機だけに絞る手もある。
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句集を出そうと思い立つ契機については、パネリストの3氏がそれぞれ触れた。山田耕司氏がそこに「遺句集」という選択肢を含めたことが、私の心に残った。
俳人のほとんどは、句集を出すことを既定のこととしているように見える。とりわけ、あの日の勉強会に集まるような人は、過去に句集を出し、近い未来に句集を出すことを、ほぼ当然視している。
遺句集じゃダメなんですか?
もう句集を出してしまった私がこんなことを言うのはおかしいかもしれないが。
私が「遺句集」を選択しなかったのは、死んだとき、誰かが出してくれそうな気がしないし、出してくれたらくれたらで、その人に迷惑がかかる。死んでまで迷惑はかけたくない。だから、自分でひとまず出しておこうという発想は、たしかにあった(大きな部分ではないかもしれないが)。
でもね、遺句集どころか、句集のない俳人だって、いいじゃないですか。
(私自身、句集を出しておいて、こんなことを言うのは、おかしいですか?)
人に向かって、句集は「あったほうがいい」と、考えもなしにいう気にはなれない。
なくたっていい。
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関悦史氏は、「ひとりでも奨めてくれる人、自分の句集が読みたいという人がいれば、出すべき」と発言。これはこれで説得力があった。ひとりの人の「読みたい」という欲望にできるかぎり応えるという態度は、「句集なんて出さないよ」と粋がるよりも、はるかに心優しく、きよらかで、少なくも自分中心ではない。
だが、この「読み手の欲望」というもの、数多く出版される句集において、果たして強く意識されているのだろうか。これは「読まれたい」「読んでもらいたい」という作者の欲望とは、言うまでもなく別物だ。
関氏は、誰かの句を一句読むのと、句集で300句を読んだのちに、その一句を読むのとでは、〈読み〉が明らかに変化すると述べた。それは「作者」の社会的背景や師系を知るといったこととはまったく無関係に、300句のいわば〈読み〉の重ね合わせがもたらす〈読み〉のことがいわれている。
何も特別のことではない。句集を読むことは、集合的(コレクティブ)に読むことだ。個人句集の300句を読めば、それは300の句を経験するという以上に(あるいは同時に)、句と作者の直接的/間接的関係を300句ぶん経験することだ。一句一句の俳句を楽しむのとは、また別の、格別の句集の楽しみがある。
関氏が、句集を出した人(読まれる人)としてディスカッションに招かれながら、句集を読む人として語ってしまうことは、私たちにとって「光」のようなものだ。〈読む〉欲望は存在すると信じるうえで。
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誰かの〈読む〉欲望と関係を結べるような句集であれば、その句集は幸せだと思う。なんとなく。
〈読む〉欲望があらかじめ存在すると限らなくてもよい。ある句集を読んで、みずからの内に〈読む〉欲望を発見する。むしろそのほうがケースとしては多いだろう(読書一般と同様に)。
ただ、どうなのだろう?
他人の句にはあまり興味がないという俳人は少なくない。公言する人までいる。彼らは、〈読者〉をどう捉えているのだろう? 彼らが句集を出すとき、自分は人の句を読まないにもかかわらず、他人は自分の句集を読むと信じるのだろうか。そのあたり、謎だ。
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句集はどのように作られるか。もっぱらそこ(プロダクト部分)に焦点を当てたこの勉強会は、すこしネガティブに捉えると、作られたその先に(広い意味でのマーケットに)、不毛の土地、無明の闇が広がっていないとも限らないなあ、と。
そんなことも考えたですよ。
〔参考〕拙句集『けむり』については、例えば、以下の座談に。
http://spica819.main.jp/yomiau/5544.htmlhttp://spica819.main.jp/yomiau/5554.html
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