2012-05-06

〔俳誌を読む〕
『秋草』2012年3月〜5月号 
彌榮浩樹「秋草逍遙」を読む


上田信治



「秋草」は、波多野爽波、田中裕明に師事した山口昭男の主宰する結社誌です。言葉に無理をさせない、しかし、ささやかな驚きと味わいのある句風が特徴か、と。

さて、どの結社誌にもある外部の書き手による作品鑑賞のページ(「秋草逍遙」)を、3月から3回、彌榮浩樹が担当したのですが、これが、たいへん面白かった。

彌榮浩樹は、ご存じの通り、実作者の立場から考える独特の俳論の書き手ですが、この三回連載においては、この人が作品のどこに手ごたえを感じるのかが、個々の句の細部にわたる鑑賞をしつつ、そのやや上のほうで抽象的に展開されている。おそらく結社外部の観客席もじゅうぶん意識しつつ。

第1回で、彌榮は俳句についての自身の基本的な考え方を、ややくだけた表現で、こう示しています。

俳句の「俳」とは、複雑な屈折の調であり、日常のただごとが有季定型の俳句作品として結晶化され極短の韻文として表現されることで、単なるただごとを超えた複雑な苦味が滲み出る、それが俳句だと思うのです。結果としてヘンな味のする句。それが、僕にとって詠むべき=読むべき俳句なのです。
そして〈掛稲の左の方がまぶしくて 山口昭男〉の「て」について「一句全体の終わりにあって一句全体を異次元にうっちゃるよう」であり、〈雑居する鳥禽類に日の短 木田満喜子〉の「に」について「俳句ではそうした助詞の(…)機能性を超えた抒情的なふるまいが重要」であると指摘します。

もっとも、刺激的だったのは〈蓑虫に今日はお堂の開きたる みなみ里奈〉の「に」について「掲句の「に」の接触感の深みがいいのです。ただ、「今日は」は、例えば「昼」とか「曇り」とか、もう少しモコモコした質感があったほうが…とも思います。その方が「に」がもっと生きる、と」と述べた箇所。

「俳句においてことばはすべてオノマトペ化するのではないか?」という、氏の思考実験の一環でしょうか。

第2回のテーマは、まさに、そのオノマトペ化。作品空間のなかの要素が「必然の無関係」と呼ぶべき関係を結ぶとき、その必然は、音の必然性によっても支えられる、との見解を示します。たとえば〈枯木立鍋に卵の黄味落とす 椹木雅代〉の上五を「山枯れて」とすると、音の呼応関係がなくなって、必然が消えてしまうのだ、と。

第3回で彌榮はふたたび、原理的な考えとして、
俳句作品がそれを読む読者に立ち現わすのは、作品のもととなった現実世界の対象の様相よりも、現実世界の〈厚み〉 の様相なのではないでしょうか(…)〈厚み〉をもった僕たちと〈厚み〉をもった世界とのそうしたぶつかりあいの、手応え・感触・響き・振動の量感こそが、 俳句作品の中身なのではないでしょうか。
と書きます。現実世界の厚みが、主体の厚みとのぶつかり合いによって表現されるとしたところが含蓄で、引用された〈ふくよかに轍にのりし氷かな 市川薹子〉は、なるほど、目撃のよろこびにあふれた写生句。

「現実世界の〈厚み〉とぶつかった〈わたし〉の響き・揺れを、作品世界すなわち言語空間に移調すること」が、書くということであるらしく、また「ただ、移調するためのもとになる響き・振動を、現実世界から得るために、〈わたし〉を現場に運ぶこと」それが吟行の意味だと言う。この人の論は、ほんとうに実作から得た手ごたえを言葉に置き換えようとしているだけなのだ、と思い至り、この人の書く俳句の教科書というものを夢想しました。

全体をバランスよくという入門書にはならないかもしれませんが、狭き門より入れと言うことですし。ええ。

1 comments:

高井楚良 さんのコメント...

上田信治さま

まだまだ小さき結社ですが、このような場で触れて頂き有難うございました。


彌榮浩樹さま

いろんな角度から講評をして頂き有難うございました。普段気付かないことばかりで、とても勉強になりました。