2012-05-06

俳句の自然 子規への遡行02 橋本直

俳句の自然 子規への遡行02

橋本 直           

初出『若竹』2011年3月号
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引き続き、子規から俳句の自然を考えてみたい。

俳句の自然は、常に新しい文明とぶつからない訳にはいかない。例えば子規「狼の聲も聞こゆる夜寒かな」について考えてみる。句意は「晩秋、夜になって他の声(音)のするなかに、狼の声も混じって聞こえてくるなあ」というくらいだろう。この句は明治二十一年の作である。ということは、そのころまだ日本狼は絶滅していない。

この句で気になるのは助詞の「も」である。この「も」があることで、物語や想像の産物、机上の作などではなく実体験に基づく生々しさを保証しているように感じる。それなら、子規が実際に山野に分け入ってそのような経験をしたのかが問題になるだろう。しかし、管見ではそのような記述を見つけられなかった。それに、情景としては人里離れた山野の夜のように想像され、もし屋外ともなれば緊張のともないそうな局面であるにもかかわらず、「聞こゆる夜寒かな」に余裕のある叙情がただようことにも疑問がわく。

例えば山里の囲炉裏端で狼の遠吠えを聞いた情景と解すことも可能であるが、調べてみると、当時既に開園していた上野動物園で日本狼が飼育されていた記録があるという。上野界隈は子規になじみのある場所である。すると、俄にこの句の読みが多様性を帯びてくることになるのである。もしかすると子規は上野動物園かその付近でこの句を詠んだのではないのか?「も」によってノイズになっている他の声は、実は動物園に飼われている、世界中からやってきた野獣たちの声だったのかも知れないのである。

野の風景ではなく、トラやライオンの声に混じって狼の声がする景色となれば、その風情はまったく異なる。もし、動物園というものがそこになければ、この句はその虚実が問題になるくらいだろう。また狼が明治に日本の山野から絶滅していなければ、この句を詠むときの「狼」という語の意味内容は今とはかなり違ったものになっていただろう。

動物園のように、近代文明はそれまでなかった経験を直接・間接に大量にもたらした。その結果、私たちがある自然の風景を眼にしたとしても、それが「リアル」であることの前提に近世までのにそれとはことなる前提条件を生み出しているはずである。

例えば、初めて見る滝があったとしよう。その美しさに心打たれる時、はたしてそれは空前の絶対の美だったのだろうか? 実は既に経験としてもっている美の範疇の、反復された合成になっているだけなのではないか。また、日本の滝しか知らないのと、ナイアガラやビクトリア、イグアスなどの大瀑布を知っているのとでは、同じ言葉に対して意味内容が異なるだろう。それは規模の大きさと感動が比例するとかいうことを言いたいのではない。

一度異質なものを知ってしまったならば、同じ語表現であったとしても、その言葉の意味内容は変わってしまうし、そうなっている自分達の変化は、変化の前のたたずまいを忘れ去るということである。文明は実経験を圧倒的に越える間接経験をもたらすから、子規がいた変革の時代は、今から見ればすべからくこのような事態の連続であっただろう。常に主体の側が変容していたはずなのだ。
北斎の画きし西瓜を半切せし上に白紙を張り赤色の紙に  しみたる処は如何にも真に迫り西洋画も三舎をさけんと思はれたり、思ふに此趣向ハ西洋画より得しにはあらざるか、北斎はいまだ西洋画を見るに及ばざりしか。」(子規「筆まかせ 第三編」明治二三年四月一日)
子規は上野の博覧会で葛飾北斎の「西瓜図」(現:宮内庁三の丸尚蔵館蔵)を見たとき、その迫真性に目を奪われ、洋画の影響を想像している。しかし、今橋理子氏の研究により、この図が迫真性を持っていながらも、実は「乞巧奠」を西瓜に見立てた「風俗画」であるとする面白い指摘がなされている(『江戸絵画と文学』東京大学出版会 参照)。

子規の感想は、この絵を見たなら誰でも持ちうる素朴で率直なものである。しかし、それは近世の絵画の読みの文化伝統と断裂したところに成立している。先の今橋氏によれば、この「西瓜図」は、東洋画である花鳥画の系列にあたり、花鳥画は伝統的に生物や植物を描くときには、その対象が寓意としてもっている意味を象徴的に導き出す仕掛けがなされているという。この時、子規はおそらくそのような花鳥画の寓意についての知識はもっていない。むしろ洋画の印象から日本画を見る立場にいる。それは近世の文人達よりも、現代の私のような日本絵画にうとい者に近い。

例えばハリウッドの作る映像エンターテインメントは、こういう風に作れば人の喜怒哀楽はこうなる、という感覚の最大公約数を組み合わせることで成立する。そのようなオートマティックな、共同体の中の共通する経験をもとに感動を反復再生することであらわされる表現様式を選んだ場合や、あるいはそれを前提にそこから独自に立ち上がる表現を目指す場合でも、一つの言葉が指し示す意味内容に変転のふれ幅が大きくありうることは厄介なことだろう。特に俳句のように削って削って一つの作品を生み出す創作様式においてはなおさらである。その時重要なのは、実は如何に詠んだかではなく、如何に読めるのか、の方であるはずだ。

冒頭の狼の句の話に戻れば、それが山野なのか、囲炉裏端なのか、あるいは動物園なのかは、そのような自然物を対象とする限り、時々の文明が俳句の読み手に対し、どう読むかの倫理を求めることになる。逆に言えば、だからこそ、自然を詠むにあたって子規の「写生」という方法とも思想ともいえるようなものが浮上してくることになるのであろう。


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