さて、第二句集『湯呑』は第Ⅱ章(昭和35年から48年)から第Ⅲ章(昭和49年から51年)へ。Ⅰ・Ⅱ章の超厳選(5~8句/年)に比べると、Ⅲ章は約27句/年。かなりの句数が入集している。『湯呑』をまとめる時点での爽波としては、Ⅲ章以降が自分の本分という意識があったと見るのが妥当でしょう。句の印象もⅡ章までとⅢ章以降とではかなり違う。49年、三和銀行本店の経営相談所長の辞令を受け、4年住んだ徳島から大阪へと転居。三和銀行ではこれが最後の役職(52年まで)。ちなみに爽波はこのとき51歳、三和銀行の定年は55歳だったのでした。
玉砂利に根づく花あり秋の蛇 『湯呑』(以下同)
玉砂利を敷いてあることから、庭園や神社のような場所を思う。花の根の方を見ると、玉砂利に隠れてはいるが、根のある箇所の玉砂利が心持ち盛り上がっている。そこへ蛇も、玉砂利の起伏どおりに体を波打たせながらやってくる。景の重層性が一句の眼目だ。
蓮枯れて飲食(おんじき)の湯気すこし立つ
冬になると蓮は枯れ、折れ曲がった茎を水の上や泥の上にさらす。傍題の「蓮の骨」は、その様子をよく表している。僅かな湯気でもその飲食のあたたかみが身に沁みるが、上五の助詞「て」で枯蓮と飲食の湯気とを直結させる独特な表現も見逃せない。
ここから第Ⅲ章突入。
水仙のまはりの雪に熊手あと
冬の終わりの頃、可憐な花を咲かせる水仙。時期的にもまだ、かなりの積雪のある頃、果たしてこの水仙も雪に遭ってしまう。よく目にする巨大なスコップのような雪掻きではなく、熊手の筋目のあらわな雪掻き後に、水仙を傷めぬようにとの心配りが見て取れる。
鯉泳ぐ底も白砂や堂雪解
一面の雪が解け始める季節、まだ池の水は冷たいが、鯉の泳ぎに溌剌としたものを感じる。「底」を描いて池を感じさせ、助詞「も」の働きで池の底の白砂だけでなく、堂の前の雪の合間に覗く白砂をも描き出す。多様な要素を持つ複雑な景を、細密に描き出している。
雛壇や鳶のながし目過ぐるあり
鳶が一羽、春の空低くを、ゆったりと飛び過ぎてゆく。その時、赤く華やかな雛壇とその前に集う人々の方へ、ちらりと流し目をくれて行ったというのである。日常に立ち現われる、こうした不思議な生々しい感触こそ、爽波が写生で描こうとしたものであろう。
ちぎり捨てあり山吹の花と葉と
晩春から黄金色の五弁花を咲かす山吹。千切りすてられた花と葉は、視覚的な鮮明さ以上に、既に立ち去った、千切った人物への想像を呼ぶ。迢空の〈葛の花 踏みしだかれて〉一首は人懐かしさを主とするが、掲句では花も人も鮮やかな謎として立ち現われる。
いちはつの花に向きたる鑿の先
鳶尾草(いちはつ)は五月頃、白や紫のかきつばたに似た花を咲かせる。掲句を読む際に、鑿を振るう人物を想定するべきか否か。私は、人物の無い景として読みたい。人気のない部屋にひそと活けられた鳶尾草とそこに置かれた鑿との間に、緊迫感が立ち昇る。
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