2012-06-03

〔週刊俳句時評64〕ふたたび短歌の話松尾清隆

〔週刊俳句時評64〕
ふたたび短歌の話

松尾清隆



東京新聞の「短歌月評」(4月14日夕刊)で栗木京子氏は、今野寿美歌集『雪占』のなかの〈ボランティアのみなさんがれきと言はないでここを被災地とは言はないで〉という一首について

この歌からは言葉に対する繊細な意識が伝わる。他の歌においても彼女はけっして「瓦礫」と漢字で表記していない。せめて平がなの「がれき」の柔らかさを、という配慮。細かいことではあるが、表現者として大震災にどう向き合うべきか、という今野の覚悟を私はそこに発見したのであった。
と述べている。

この場合の平仮名表記にはたしかにそのような効用が認められるが、ひとつ問題となってくるのは作者が歴史的仮名遣いを採用している点。杓子定規なことをいえば、ここは「がれき」ではなく「ぐわれき」と表記すべきなのである。ただし、それでは読み手に伝わりにくく、表現上の効果も得られないだろう。用字用語の確かさに定評のある作者ゆえに、単なるミスであるのか、あえて例外的な表記としたのかが判然としないところがある。あるいは、誤記と思われるリスクを冒すという面にこそ、栗木のいう「覚悟」を読み取るべきであろうか。

さて、俳句において、こうした表現上の効果を巧みにもちいる作家が注目を浴びている。御中虫である。氏の句集『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』を見てみよう。

  朝の滝さあ落ちやうぜ出発だ

  どつと笑ひながら出る胡麻の一粒で悪ひか

  暗ヒ暗ヒ水羊羹テロリテロリ

歴史的仮名遣いの場合も、一句目の「落ちやうぜ」は「落ちようぜ」、二句目の「悪ひか」は「悪いか」、三句目の「暗ヒ暗ヒ」は「暗イ暗イ」とするのが通常である。こうした表記の工夫によって、一、二句目では含羞や屈折、三句目においてはおどろおどろしさといったものが際やかである。集中には、

  されど
  ひるまへに
  ひるねする
  くわいらく

  階段をふみはづしたところに花が

  セロリ噛むやうにさくさく忘れてやる

といった旧仮名を問題なく使用した句や、

  あなたの手が昆布のように昆布のように

  万年青青青男女の違いとは何か

  乳房ややさわられながら豆餅食う

などの新仮名の句が混在している。これらの句を比較すると、一句毎にどの仮名遣いを採用するのが効果的かを検討したであろう、周到さを見ることができる。また、一句のなかに新旧の仮名遣いが混在した

  こないだはごめんなさい春雷だつたの

のような句もある。前述した仮名遣いをわざと間違えたような句は、一冊の句集のなかで、こうしたさまざまな表記の秀句をスムーズに読み進めるうえでも重要な役割を担っているといえるだろう。

第三回芝不器男俳句新人賞を受賞してからの彼女の活躍については今さら述べるまでもないが、もし、のちに俳句の表現史のようなものを書くとしたら、彼女の作品のもっとも注目すべきポイントとして、こうした面をまず挙げたいと思うのである。

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