〔週刊俳句時評65〕
ふたたび御中虫の話
松尾清隆
前回の当欄を書き上げたあと、西村麒麟氏が「詩客 SHIKAKU」で連載中の「麒麟から御中虫への手紙だよ」② を読んだ。
虫さん、虫さんはあなたの持っている「でたらめ」を大事にした方が良いです、ヘタクソで元気でデタラメでただもうラアラア唄ってください、あなたは気付いてないけど、それがどれほど読み手に元気を与えるかそ うなのである。本人が「気付いてない」のか、読み手が受けとっているものが「元気」なのかといったところには疑問符もつくが、私が言いたかったのも、つま りはそういうこと。方法としての「でたらめ」さが作品の魅力につながっていることの具体例として、仮名遣いに注目してみたのである。それが舌足らずに終わってしまった感があったので、西村の「でたらめ」という評言の的確さに脱帽した次第。
その「でたらめ」さが発揮された事例として、御中 虫の二冊目の句集である『関揺れる』を忘れてはならないだろう。この句集は、長谷川櫂氏の『震災句集』への異議申し立てとして企図されたということだが、その際に御中虫が考え出した、「関揺れる」という季語を新たに作ってしまうという方法のなんと「でたらめ」なことか…。
さて、これもすこし前になるが、「彼方からの手紙 vol.4」を読んだ。ゲストは鴇田智哉氏で、T&lampというユニット名で八句を発表している。
言葉を知らぬ乱父さん。その乱父さんと鴇田が二人組、T&lampを結成した。/一人の句をもう一人がアレンジ。それで四句ずつできた。(鴇田智哉)とある。その作品は、
しらぎれる吹いきゃらもんを飛ばらもん
とれもんどサモさらうんど木は曇る
ふらっとを振ってすわっと戻らなん
と いったもの。なんだか大橋巨泉の〈みじかびのきゃぷりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ〉を髣髴させる。「テーマ 音楽」とあるので、 テーマに即応しようという意図が辛うじて諒解されるものの、ほぼ意味はわからない。そういう点では御中虫の作品以上に「でたらめ」であるかも知れないのだ が、御中虫の作品と比較した場合、音数が定型を保っているゆえか、却って行儀のよい感じがしてしまう。ひょっとして、方法論としての「でたらめ」がひとつのトレンドになってきているのか? などと思うのだが、御中虫以上に「でたらめ」な作風を成功させるのはかなり難しいことであるとも言えるだろう。「でたらめ」方面の道もけっこう険しいのだ。
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