〔週刊俳句時評67〕
当事者性と私性
松尾清隆
おくればせながら、「詩客」俳句時評 第57回でも話題となっていた「俳句界」7月号の特集「"震災゛想望俳句の是非」を読んだ。多くの記事は、実体験のレベルでの当事者性と句作レベルでの実感にまつわる言説。そうした中、仁平勝氏の「俳句の底力は、プロの俳人が「震災」という題材をうまく詠むという問題とは別のものだ」という言葉に目を止めた。実体験や実感といったことも内包しつつ、もうすこし普遍的な視座からのもの言いである。
さて、ここでまた短歌の話。短歌界でも同様な観点からの発言が見られたので紹介したい。塔短歌会・東北が今月発行した『366日目 東日本大震災から一年を詠む』に収載の座談会で、気仙沼市出身の梶原さい子氏から長谷川櫂氏の『震災歌集』について次のような発言があった。
みんな批判してるけど、いいと思ったっていうか、歌一首一首は、 あの、うん。練られてるわけじゃないですよ。ね。(略)どこかで見たような詠み方なんです。つまり昔からある歌。だから、一首ずつを見ると批判ってあるかもですが、一冊詠むと、長谷川櫂 さんが詠んだんじゃなくて、伝統が詠んだ(拍手)。日本の詩型の伝統がっていうふうにしか思えなかった。梶原の度量のひろさに感心したと同時に、短歌という器の大きさを再認識させられた。仁平は「俳句の底」を具体的には「「心の傷を癒す」ささやかな手段」「死者にたいする「鎮魂」」としているが、それを可能にしているのは「日本の詩型の伝統」であり、長谷川もまたその恩恵をうけた一人と言えるだろう。
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俳人であり、歌人でもある堀田季何氏は、一昨年の短歌研究新人賞座談会での〈戦争がしたい 広場の噴水に誰かが靴を落としていった〉という吉田竜宇氏の戦火想望ふうの一首をめぐる佐佐木幸綱氏、加藤治郎氏らの「現実感がない」「むき出しの人間の存在感が伝わってこない」といった発言について、
違和感を覚える点が一つある。(略)短歌が「一個人の自我の詩」であるという近代以降の価値観に基づいているからだ。(略)「個人」を主題とするようになった十九世紀欧米文学の洗礼を受けた短歌は「集団の詩型」から「われの詩型」となり、(略)「われ」が一個人である事については殆どの歌人の意見は一致している。しかし、吉田の掲歌における作中主体の視点は一個人である「われ」のものであろうか。評者はそうでないと思う。掲歌のような最近の若手が好む歌風における視点は「われ」を含んでいながらも「われ」以外のものも含むものではなかろうか。すなわち、「われわれ」という視点である。(「中部短歌」7月号 時評)と違和感を表明している。これは近代西洋の価値観によるバイアスの問題であり、私性の問題である。前述の「俳句の底力」や「伝統が詠んだ」は、問題意識がこのような領域にまでとどいていなければ出てこない言葉ではないだろうか。当事者性と私性の問題を完全に切り離すことは出来ないが、ある程度区別して考えてみる必要もありそうだ。今後は、定型詩の記録性などとあわせて、そのあたりが一つの論点になってくるのかも知れない。
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