[追悼・今井杏太郎]
とうとう老人にも飽きて 師・今井杏太郎を悼む
仁平勝
弟子が書く追悼文は、師に敬称をつけない。たしか丸谷才一氏が、どこかにそんなことを書いていた。その慣わしに従いたい。
今井杏太郎とわたしを引き合わせたのは、黒田杏子さんである。彼女が企画した超結社の句会に誘われ、そこで初めて顔を合わせた。ほかには大串章、棚山波郎、阿部完市、榎本好弘、細谷喨々、横澤放川、岸本尚毅という面々がいて、会の名前は「コルク(凝る句)の会」といった(参加予定だった中原道夫の命名)。
何年ごろだったか思い出せないが、2000年に杏太郎が『海鳴り星』で俳人協会賞をとったとき、「コルクの会」の仲間で受賞パーティーをやったから、そのすこし前だろうか。ちなみに場所は神楽坂の日本料理屋だったが、そのとき主賓は刺身にまったく手をつけず、魚嫌いであることが判明した。
その句会は、場所が学士会館から「藍生」発行所に移り、メンバーもいくらか入れ替わって「Moccoの会」になった。やがてそれが俳誌「件」に発展したが、そのころ杏太郎とこんな会話が交わされた。「仁平さんはひやかしで俳句をやってるの?」「いえ、本気でやってます」「じゃあ『魚座』に来なさいよ」「はい。でも、なかなか俳句をつくる時間がとれなくて……」「酒が好きな人は、酒を飲む時間がとれないとはいわないよ」――というわけで、即座に『魚座』への入会が決まった。以後、今井杏太郎を師と仰ぐことになる。
2003年4月、最初の句会で〈老人を起して春の遊びせむ〉という句を出した。〈老人のあそびに春の睡りあり〉という師の句を受けた、わが「魚座」デビュー作である。
「魚座」の句会では、主宰がすべての句を批評する。正確にいうと、採った句を批評するのだが、たいてい「杏太郎選、全部」というので結果としてそうなる。季語があって、日本語として成り立っていれば採る。たまに、採った句をいちいち読みあげることもあり、そのときは採らない句が二、三ある。「分からない句」は採らない。
ときどき、「たとえば、ですよ」といって別の句案を示す。わたしの場合は、〈いくたびも眼鏡を拭いて春惜しむ〉という句を出して、上五を「ときどきは」としてはどうか、といわれたことがある。「そうします」と答えると、「じゃあ、500円で売ります」というのが決まり文句だった。
その「魚座」を、わたしが入って4年足らず(2006年12月号)でやめてしまう。わたしだけでなく、他の会員たちにも唐突だったようだが、本人は最初から十年間と決めていたということで、創刊からちょうど十年目だったのである。
結社をやるからには新人を育てたい、というのが創刊の思いだったと、葬儀のとき奥様から聞いた。俳壇賞の茅根知子や俳句研究賞の鴇田智哉など、いい若手が順調に育ってきたのだから(「週刊俳句」編集人の村田篠もそうだし)もっと続けてもよかったのに、初志貫徹というかマイペースというか、そこはいかにも杏太郎らしい。
「魚座」をやめて、さてどうするかと思っていると、わたしに句会を始めろという。ちょっと荷が重いなと思って、しばらくのらりくらり逃げていると、しびれを切らせてどんどん計画が進み出した。元「魚座」の茅根知子と北川あい沙を運営役とし、名前は「かがみ草句会」と決め、代表者は仁平勝ということで立ち上げてしまった。
2010年4月にスタート。句会に出るときは、旧「魚座」の小林遊さんがお供だった。梁山泊のような(つまり俳句をめぐって激論を交わす)句会をやりたい、というのがつねづね杏太郎の口癖だったが、その意を受けて(?)、会員同士のあいだで熱い論戦があったりした。
杏太郎節は衰えをみせず健在だった。〈背に老いのふはりと浮いて春の暮〉〈わが影の消えたる八十八夜かな〉〈遠き世にゆふぐれがあり梅雨に入る〉〈或る夜の夢にもみぢの葉が散るよ〉〈けふでもう冬の寒さも百日に〉〈北窓をひらけば船の帆が見ゆる〉〈流れ木のただよひながら夏をはる〉など、ため息が出るような句である。
「魚座」をやめてから、杏太郎がやりたかった(とわたしが思う)仕事は、さしあたり二つある。一つは2009年に、自身の第五句集『風の吹くころ』を上梓したこと。あとがきに「もうそろそろ、竜宮城からのお迎えが見えられるのでは……、と心待ちにしている」と書いてあるが、いくぶん洒落だとしても、自らの集大成という意識がうかがえる。帯文を書いてくれといわれたが、「いくらなんでも弟子が帯を書くのは変です」と断り、妥協して栞文を書くことになった。
もう一つは、北川あい沙に句集を出させること。このときは、なかなか句稿がまとまらないのに業を煮やして、さっさと序文を先に書いてタイトルも『風鈴』に決めてしまった。
『風鈴』が出たら、まもなく「かがみ草句会」も終わった。「体がきつくなった」というのが本人の弁で、あとは自由にやれということだった。句会はしばらく途絶えたが、「誘えば先生も出てくれるだろう」という思惑もあり、新たに「乙の会」をつくった。なかば思惑が当って、気分がいいときは出席してくれたが、昨年の12月に「今後はもう出ない」と宣言し、それきりもう来なくなった。
その最後の句会で、〈西へ行く船あり梅の散るころに〉という句が出た。「ころ」は杏太郎の得意手だが、12月にまだ梅は散らない。つまりこれは予告の句である。「西」はすなわち西方浄土だとすれば、この時点でもう、寿命が「梅の散るころ」までだと感じていたのだろうか。それよりは、すこし長生きしてくれたのだけれど。
銀座が好きだった。「かがみ草句会」の会場は「ルノアール」の会議室だったが、場所は銀座六丁目の店に決めていた。「乙の会」では、たまに予約がとれずにほかの店になると、体調が悪いといって出てこなかった。食事に誘われるときは、たいてい銀座四丁目の「グラナダ」だった。イタリアの松茸といわれるボルチーニが好物で、生ボルチーニが出る季節にはそのステーキを御馳走になった。
俳句のリズムは演歌に通じる、というのが持論で、よくカラオケに行った。場所は銀座八丁目のバー「ニューアスコ」。「魚座」の頃は「詩歌研究会」などと称して、日曜日に店を借り切ったりした。それ以降も、なにか理由がつくと(たとえば『風の吹くころ』の出版記念会とか)、会場は「ニューアスコ」になった。
十八番は、「知床旅情」と「テネシー・ワルツ」だった。あるとき「テネシー・ワルツ」が入ったパティ・ペイジのCDをプレゼントしたら、歌う「テネシー・ワルツ」はそれから英語のバージョンに変わった。「ラブ・ミー・テンダー」を歌ったこともある。なにを歌っても、演歌のようにコブシが入った。
スペインを愛し、「ラ・マンチャの男」をよく句に詠んだ。自身をどこかで、ドン・キホーテに擬していたのかもしれない。ならばわたしは、ちゃんとサンチョ・パンサになれたのだろうか。
いまごろは竜宮城の門涼し 勝
●
2012-07-15
とうとう老人にも飽きて……仁平 勝
登録:
コメントの投稿 (Atom)
1 comments:
読みました
コメントを投稿