2012-08-19

「輸入品の二十四節気とはずれがある」は間違ひだ! 島田牙城

「俳句」2012年8月号「緊急座談会」読後緊急報告
「輸入品の二十四節気とはずれがある」は間違ひだ!

初出 月刊俳句同人誌「里」2012年3月号(108号)(実質8月15日発行)
[吾亦庵記録] 峠の文化としての春夏秋冬、あるいは、「ずれ」といふ誤解について

島田牙城


七月二十八日から二十九日にかけて、本井英さんの肝煎になる第四回「こもろ・日盛俳句祭」に行つてきた。虚子が明治時代に行なつた日盛会なる俳三昧を現代に復活させ、三日間俳句漬にならうといふ句会形式の催しである。

句会のあと、初日に講演会、二日目にシンポジウムが行はれるのだが、今年のシンポジウムの主眼が、二十四節気の見直しを宣言してをられる日本気象協会から、このプロジェクト担当の金丸努さんにわざわざ来て頂いて二十四節気を考へようとするものだつたので、期待して会場へ向かつた。

十一年前に遡るのだが、現代俳句協会が立春や立夏などを冬や春へ追ひやるといふ無謀な俳句歳時記を編纂刊行したことに「俳句」誌上の「時評」で抗議したことがあり、その俳句歳時記の編集委員を務められた筑紫磐井さんもパネリストの一人として登壇されるらしいのだ。かういふ機会にきちんと話をしておきたいといふ思ひもあつた。

日本気象協会による日本版二十四節気の提案事業については、「俳句」八月号に「どうなる!? 二十四節気」(岡田芳朗・宇多喜代子・長谷川櫂)なる緊急座談会も掲載されてゐる。

日本気象協会による日本版二十四節気の提案事業といふものがなぜなされたのか、そして僕は、かういふ提案事業に対してどのやうな立ち位置にゐるのかを書いておかなくてはならない。シンポジウムには会場聴衆の声を聞く時間が設けられてゐたので、挙手をし、資料をパネリストに配るなどしながら、数分時間を頂いた。これから書く事は、その時の意見内容を補足するものとなるだらう。



その前に、二十四節気とは何かといふことをかいつまんで説明しておく必要がある。

これは、太陽と地球の位置関係(黄道)をもとに、一太陽年を二十四等分し、それぞれの季節に合ふ二文字の単語を宛てがつた暦であり、紀元前十世紀よりも旧い殷周の時代から冬至や夏至(二至)が中国華北地方で使はれてゐたことが確認されてゐる。

春分や秋分(二分)、立春、立夏、立秋、立冬(四立)も戦国時代(紀元前四世紀ころ)には使はれはじめ、紀元前二世紀、前漢の武帝時代の思想書である『淮南子(えなんじ)』には現行の二十四節気が出揃つてゐるさうだ。

日本には推古天皇、聖徳太子の時代には輸入され、一般に用ひられるやうになつたと言はれてゐる。

   立春 雨水 啓螢 春分 清明 穀雨
   立夏 小満 芒種 夏至 小暑 大暑
   立秋 処暑 白露 秋分 寒露 霜降
   立冬 小雪 大雪 冬至 小寒 大寒

その昔、人々はどのやうに暦を作つたのかといふと、最も小さな周期として日の出から日の出までを一日(後に太陽が真南に進んだ時を午とするやうになる)と数へ、次に身近な周期として月の満ち欠けが単位とされた。月の周期といふのは、ただ天空での変化といふだけでなく、潮の満干などにも現はれ、人体にも影響があるものだから、すごく馴染みやすかつたのだらう。

そして、月が完全に欠けた新月を朔、月の始めとし、満月を望、月の中として一ヶ月を数へる事とした。一月、二月、また一日、二日と、「月」「日」といふ助数詞を使ふのはその名残である。

では、年は何かといふと、この「年」といふ漢字は「秊」が本字で、中に「禾」のあることでも知れるとほり、稲の稔(みのり)を表す字だつた。そこから、稔から次の稔までを一年と数へたのである。

月が十二回満ち欠けを繰り返すと、だいたい同じ頃に稔の時が戻つてくるので、十二ヶ月を一年としたまではよかつたが、それでは、どうも、徐々にだけれども稔の時期とのずれが生じてくることに気付いた人たちが、太陽の一年を計つてみると、日の差す時間が一番短く影の長い日(冬至)から次の冬至までに三百六十五回朝を迎へる事が分かつた。(月の十二ヶ月は太陽の一年より約十一日短い)。

では月のはうはどうするんだよ、といふことに当然なるのだが、月は日々のことだからすごく大切で分かりやすい。ただ、一年との差は埋めなくてはならないといふことで、いろいろ計算した挙句、十九年に七度閏月を加へて十三ヶ月としてやれば、調和がなんとか図れることを知つた。稔の一年に合はせる努力をしながら月の一ヶ月を守る、これが中国で生まれ、日本で明治五年まで使はれてゐた太陰太陽暦である。

ただし、もうお分かりの人もをられようが、これだと閏月を置く十三ヶ月の年が二、三年に一度やつてくるわけで、同じ一月でも今年の一月と来年の一月では気候に狂ひが生じる。同じ一月一日でも寒さが一ヶ月ほどはずれてしまふのであつた。これでは、二月下旬には畑に出よう、四月半ばには種を播かう、十月上旬には稲刈りをしようなどと思つても、年ごとに気温差が生じるのだから、田畑を耕してゐる人には不便きはまりない。

そこで、二十四節気の登場となるのだつた。

先づ、先にも記したやうに冬至と夏至(二至)で太陽の一年を二等分し、次に昼と夜の長さが同じ日である春分と秋分(二分)を決めて四等分、その次に四つの中間点に立春、立夏、立秋、立冬(四立)を立て、これで八等分となる。

ここからは本当に頭がいいなあと感心するのだけれど、十二の月に八つの節を対応させるために、十二と八の最小公倍数である二十四を導き出し、八つをそれぞれ三等分したのだ。そこへ時節の単語を宛てがつて行く。

かうして二十四節気が完成するといふ手順なわけである。一月一日の寒さは毎年変はるけれど、立春の寒さはほぼ変はることがない、便利な暦を手に入れた瞬間である。

注意しておいて頂きたいのは、二十四節気とは、一太陽年を二十四等分したものだといふこと。すなはち陰暦とは別物であり、現在我々が使つてゐるグレゴリオ暦といふ太陽暦とも、ほぼ毎年合致(一日の差は生じる)するといふことである。

ただ、日本の暦では残念ながら、明治六年のグレゴリオ暦導入とともに、農事もグレゴリオ暦でやればいいと思つたか、二十四節気はほぼ打ち捨てられてきたと言つていいだらう。
(明治期には二十四節気を学校で教へたとか、二十四節気の正式な日時分は今でも国立天文台が計測し官報に載せるなど、打ち捨てたのではないと言ふむきもあらうが、実態としては刺身のつま程度の扱ひだ)。

  立春  二月四日
  立夏  五月六日
  立秋  八月七日
  立冬 十一月七日

これを眺めて頂きたい。漢字を表意文字、アルファベットを表音文字といふがごとき差が、ここにはある。二十四節気が表意暦だとすると、数字を宛てがつただけの日本で使ふグレゴリオ暦は、味も素つ気もない表順暦なのである。

そして、この表意暦、その意味するところが現状や日本の置かれてゐる気候と合はないのではないかといふ意見が出てきたのが、現代俳句協会の歳時記編纂動機であり、日本気象協会の日本版二十四節気提案表明といふ動きなのだ。



「ずれ」といふ感じ方、考へ方が、この動きにはあるやうだ。

立秋は盛夏、立春は酷寒の時期に迎えるため、その時分の季節感と一致しません(日本気象協會のホームページ「日本版二十四節気」の補足説明より、傍線筆者)

といふ説明は、現代に生きる多くの日本人が感じてゐることと思ふ。このことは、六月、七月、八月を夏とした現代俳句協会編の『現代俳句歳時記』「序」で、

陰暦基準でいくと、広島の原爆忌は夏、長崎の原爆忌および終戦記念日は秋という事になる(略)そのような生活実感とのズレは、陽暦を基準とすることで解消できた。

と金子兜太が記す根拠でもあつたらう。(この金子の序文は、陰暦と二十四節気を混同するといふ誤解を孕んでゐるが、それについては十一年前に「俳句」に充分書いてゐるので、今は問はない)。

今回ぼくが不思議に思つたのは、暦の研究者や、二十四節気に詳しいはずの俳人までが、この「ずれ」といふものを感じてをられるといふ事実についてだつた。

「俳句」八月号の緊急座談会「どうなる!? 二十四節気」に出席なさつた三人が、皆、この「ずれ」について肯定されてゐるのである。(長谷川、宇多は俳人、岡田は暦研究の泰斗である)。

長谷川櫂 (二十四節気が)古代中国で成立したため、日本の実態と合わないところがあります。例えば立春は二月の初めですが、日本ではとても寒い時期です。いわゆる春とはずれている。 

岡田芳朗
 二十四節気はだいたい、日本でも合う。合うけれど「ずれ」がある。それを承知で、「だいたい合っているんですよ。でもちょっとずれているんですよ。だから面白いですね」という余裕、遊びというか、それがあるのがいいんじゃないか。

宇多喜代子
 文化の厚さは「ずれ」から来ているのでしょう

(傍線筆者)

僕は、二月四日が立春であることを「ずれ」であると言ふのは間違ひなのではないかと感じてゐる。千数百年間もの長きに渡り「ずれ」てゐることを認識しながら皆が二十四節気を使つてゐたのだらうか。「ずれ」といふ確認は後世、特に二十四節気を生活の中から一度抹消し、再度その重要性を意識し始めた昨今の感じ方に過ぎないのではないか。さうではなく、日本の暦は万葉以来素直に二十四節気を受け入れ、疑ひを持つ事無く江戸期まで生活の中心にこれを据ゑてきた。

雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙いまやとくらむ 二條の后藤原高子(『古今和歌集』)

などなど、それを証する文学作品は枚挙にいとまがない。

では、なぜ日本は二十四節気を素直に受け入れる事ができたのかを考へると、万葉の時代、すでに日本が農耕型の生活をほぼ確立してゐたからだといふ仮説に僕は至り付いてゐる。



その話をする前に、重要な事実を確認しておきたい。立春と立秋のころといふのが、日本の気候ではどのやうな気温なのかといふことである。

『理科年表』に、「気温の半旬別平年値」といふ表が載つてゐて、札幌から那覇までの一年間の気温の推移をほぼ五日ごとに区切つて示してくれてゐる。その一部を示してみよう(表)。





















この表で、立春や立秋のころが最も寒く(あるいは暑く)、それを過ぎると暖かく(あるいは爽やかに)なり始めるといふことが、科学的に立証されてゐることを確認して頂きたい。

そしてもつと大切な事を僕はこの表に籠めた。一目瞭然だと思ふが、大寒の次に立春があり、大暑の次に立秋がある。最も寒い時期の直後に春が立ち、最も暑い時期の直後に秋が立つ。二千数百年前、中国の人々はそのやうに季節を定めた。そしてこの定めを輸入した日本の人々も、さういふ決め事を素直に受け入れた。

最も寒い時期の後にもまだ寒い日が続く、最も暑い時期の後にもまだ暑い日は続く、そんなことは当然分かつてゐるにも関はらず、なぜまだ寒い時期に立春を、暑い時期に立秋を立てたのであらうか。これは、気象との「ずれ」でもなんでもなく、そのやうに命名する必然性があつたのではないか。

「ずれ」を言ふ人に、中国の大陸性気候と日本の海洋性気候の差を指摘する人がゐる。事実、「俳句」の座談会で岡田がその事を説明してゐた。しかし、二十四節気の生まれた中国華北地方にある北京の月別の最低気温を調べてみると、

  十一月(立冬)0度
  十二月 氷点下5度
  一月 氷点下8度
  二月(立春)氷点下5度 
  三月
 氷点下1度

となるのであつた(日本のやうに半旬別の表を示すべきだらうが、見つけられなかつた。ただし僕の示したい結論にはさして影響しないであらう)。もちろん大陸性か海洋性かの違ひから、中国より日本のはうが寒さの頂点(夏ならば暑さの頂点)が若干遅れるのだが、大本の、最も寒い(暑い)時期を過ぎたら春が立つ(秋が立つ)といふ思考には日本と中國に「ぶれ」は無い。すなはち「ずれ」てなどゐないのである。

「暖かい時期が春」といふのであれば、中国華北地方の春は三月からのはずである。しかし、中国華北地方も日本も、二月四日に春が立つのであつた。すなはち、「ずれ」を言ふ人々は、「中国華北地方の季節のずれ」をも説明しなくてはならないこととなる。



俳句祭の前夜、磐井さんの顔を思ひ浮かべながら布団の中で悶々としてゐた時、「峠の文化としての春夏秋冬」といふ考へ方が閃いた。一月から二月上旬に寒さのピークを迎へる。そのピーク、峠を過ぎたら視界が開ける、春が育ち始めるのである。立秋には秋が育ち始めるのである。僕たち極東の民族はその春や秋の育ちを大切にしてきたのではなかつたか。


宇多 日本の文化の層の厚さ。(略)季節のずれや変化があればこその陰翳礼讃。

長谷川 日本人がなぜこんな繊細な季節感を持ちえたかは、中国とずれていたから。

岡田 中国とは「ずれ」があるということは知っていて合わせている。もともとがちょっとのんびりした、余裕のある国民性だから。           (傍線筆者)


文化や国民性といつた曖昧な事で中国との「ずれ」を語り、挙句、日本の春夏秋冬はちよつと変な事になつてゐるのだと肯定してしまつていいのだらうか。そうではなく、日本の春夏秋冬がきちんとした正しい春夏秋冬なのであるといふことを僕は示したいと思ふ。
 
「峠の文化としての春夏秋冬」について、歳時記の時候季語を眺めると面白い。

 春めく・春兆す→春深し・春闌 直後に 春逝く
 夏めく・夏兆す→夏深し・夏闌 直後に 夏の果
 秋めく・秋兆す→秋深し・秋闌 直後に 逝く秋
 冬めく・冬兆す→冬深し・冬闌 直後に 冬尽く

僕たちは「春衰ふ」「春弱る」といふ言葉を持たない(夏、秋、冬しかり)。すこぶる健康的な春夏秋冬と言へる。なぜさうなつたのか、闌(たけなは)といふ峠に辿り着いたら一気に春を逝かしめ夏の兆(きざし)を育て始めるから、衰へたり弱つたりしてゐる時分には次の季節に移行してゐるのだつた。兆から季節を育て始め、闌(峠・頂点)で、うしろを振り向くことなく一気に終はらせる。

ここが欧州型狩猟民族の「Season」と、極東型農耕民族の「季節」の違ひであると、僕は考へてゐる。図にすると分かりやすいので、参考にして頂きたい。



















簡単に説明しておく。極東型農耕民族の、耕から収穫までといふ育てる意識の強い労働の仕組みが、兆から闌までを一つの季節と考へさせたのではなからうか。これには、いつ労働するのかといふことが大きく影響してゐた。即ち、後述する日中時間との関係である。秋の闌に稲は実り、一気に収穫して冬を迎へる。収穫までが秋なのであつて、それ以後は冬なのだ。狩猟民族の場合にはさうはいかない。季語でも狩が冬になつてゐるやうに、立冬を前後して狩は続く。田や畑といふ限られた大地に自ら植ゑ育てたものの場合には、一気に収穫出来て一気に冬を迎へられるけれど、野山を駈け回る獣を狩る労働は、一気といふ訳にはいかない。狩猟民族は、立冬以後も雪が深くなるまでは山へ入ることとなる。冬の生活に入るのも、その分農耕民族より遅れる。ただ、わざわざ育てる必要がないから、春の動きだしは農耕民族よりもゆつくりで、山菜が食べごろになつた頃からまた山に入るのだから、春分から春だとして丁度いい。逆に農耕民族はまだ寒い立春過ぎ、日が伸びてきたのを感じれば農機具の手入れをはじめ、啓蟄ともなると虫や蛇や螻蛄たちと一緒にねぐらを出て、田や畑を耕し始めるのである。農耕民族の春は必然的に早い。

それを人生八十年に譬へてみた。欧州型狩猟民族のSeasonは二十歳から六十歳で区切られてゐるのであり、極東型農耕民族の季節は、零歳から四十歳で区切つてゐるのだと。

明治初頭にヨーロッパの文化を無批判に取り入れた事、そのことを今さら責めるつもりも無いが、「Season」には「季節」を、「Spring Summer Autumn Winter」にはそれぞれ「春 夏 秋 冬」を、あまり疑ひもせずに訳語として受け入れたのであらう。しかし、二十四節気を使ふ農耕型民族の中国や日本の人々の「季節」と、全く別の暦を使ふ狩猟型民族の欧州人のSeasonは、大本のところで考へ方に違ひがあつた。

二十四節気では二至二分(冬至、春分、夏至、秋分)を季節の真ん中に置いたのに対し、西洋の暦ではこの四つをSeasonの初めと考へてゐるである。基準が違ふ「季節」と「Season」を同じ物として取り入れてきた結果が、現在の日本の春夏秋冬が混乱してゐる原因であり、福澤諭吉らの拝欧主義思想で富国強兵を進める中、いつのまにか暑いのが夏で寒いのが冬だといふ勘違ひをしてしまつたのであつた。



もうお判りだらうが、夏は暑い、冬は寒い、といふのは勘違ひである。冬至、春分、夏至、秋分を季節の中央に置くとはどういふ事だつたのか。日の一番長い三ヶ月が夏、日の一番短い三ヶ月が冬なのである。中国、そしてそれを輸入した日本の春夏秋冬とは、先づ第一に日の長さで決まつてきたのであつて、気温で決めた物ではない。だから当然、日本と中国になんらの「ずれ」も存在しないし、それを気温で語るとすると、兆から闌までとなる。これを、ごく自然に、農耕民族たる中国の人々が生み、日本の人々が受け入れた。

日の長さといふのは、電気が一般に普及するまでは、気温とともに切実なものだつたに違ひない。

長野を例に取ると、今年の夏至の日の出から日の入は十四時間四十分、冬至の日の出から日の入は九時間四十分と、なんと五時間もの差があるのだ。収穫が済んでから再び田畑の準備を始めるまでの日の一番短い三ヶ月間を「冬」と呼んだ、それが極東型農耕民族の冬なのである。

しかし今の生活の中で、この日の長さ、日の短さを実感出来てゐる人はどの程度ゐるのだらうか。生活習慣まで変へろとは言はないが、時々は日の出とともに起きるといふことを実践してみるのも悪くない。新聞の天気予報欄にはその日の日の出・日の入の時刻や月齢などが細かく載つてゐる。目を通す習慣だけでも、ぜひ身に付けて頂きたい。今年の八月七日、立秋だつた長野の日の出は四時五十八分、日の出てゐる時間は十三時間五十分であり、収穫の準備が始まる。

ともあれ、岡田さんや宇多さん、長谷川さん、日本気象協会や筑紫さんら影響力の強い発言者には、農耕民族の四季へ狩猟民族のSeasonを宛てがつた事による「大きなずれ」をこそ認識して頂きたいのであつて、中国と日本の気温差に惑はされないでほしい。(二十四節気に表はされた中国の気象現象と、日本のなかでも東京や京都の気象現象とで大きな違ひがあるとすると、「小雪」「大雪」くらひであらうか)。

そして、これからの日本の四季のことを書いておくと、これは、千数百年続けてきて、日本文化の基調をなしてゐる二十四節気の復権を、日本気象協会や小中学校の教育現場のご努力で啓蒙して頂くことに尽きるだらう。明治以来百四十年間、我々は間違つてきたのであり、日本気象協会の今度の提案は、二十四節気を日本列島に住む一人ひとりが再認識するための大きな機会なのである。その意味で、僕は気象協会の今回の提案を是とするものだ。一緒に考へませうと呼び掛けたいし、事実、小諸まで出掛けて下さつた協会の金丸努氏は、「二十四節気を詳しくは知らなかつた。提案以後多くを学び、再認識した。現行の二十四節気は残します」と言はれた。

議士よ我等が土に耕すを忘るゝな 松瀬青々 大6

なんぞといふ戯句もあるが、まあ、俳人だけが騒いでも何も変はらないのである。シンポジウムでは「暦の上では秋」といふ言ひ回しを止めて頂けないかと申し上げておいた。

「Summer Vacation」を「夏休み」と直訳しがことが、欧州型狩猟民族の季節感の普及に大きな役割を果たしてしまつたやうだ。夏休みの後半は「秋」なのに、明治の教育者でもある福澤諭吉らが、戦略としてこれを「夏休み」と訳したのではないかとすら思ふ。大暑(夏)から処暑(秋)までの休みなのだから「暑期休み」などの適切な語があつたらうにと、残念でならない。日本気象協会や小中学校の教育現場には、「夏は日が永く、冬は日が短い」といふ極東型農耕民族の春夏秋冬を取り戻すために力を貸して頂きたい。僕たちが大切にしてきた春夏秋冬の魂は、明治維新以来狩猟民族に売り渡してしまつた。日本気象協会の提言を逆手に取ることで、それを取り戻すことが可能となる。今、絶好の機会なのである。



ところで、僕の今の一番の関心事は、「紅葉」の季節についてである。紅葉は秋・十月の風物として日本の文学を彩つてきた。それが今、ヒートアイランド現象や地球温暖化で立冬以後の風物に化さうとしてゐる。次の機会に書く。

3 comments:

匿名 さんのコメント...

この人たちには、暦の『ずれ』が分かっていない。実際の暦はずれを計算しないと運命学には使用できない。それを知って初めて「ずれ」を述べられるのだ。

匿名 さんのコメント...

本文書いたのは何時代の人間?
そのくせに「,」じゃなく「、」だったり?
かなり笑える

匿名 さんのコメント...

今まで漠然と感じていた二十四節季の違和感が納得出来ました。
温度変化も農耕生活の衰退も影響し、先ではもっとズレを感じる人が増えるのではないかと思いますが、成り立ちは理解しておきたいと思います。私の住んでいる地域でも紅葉と言えば以前は11月でしたが 今や12月にならないと見頃にはなりません。
旧仮名つかいの文章も 俳句をしていた父が拘っていたので 懐かしく思いながら読みました。