2012-08-26

松山 巖 インタビュー 震災・原発・都市・言葉・文明【前篇】

松山 巖 インタビュー
震災・原発・都市・言葉・文明 【前篇】

『塵風』第4号(2011年12月)より転載









3.11の東北大震災と福島原発事故は戦後六十六年のこの国の枠組みに深刻な衝撃をもたらした。事態は収束に向かいつつあると演じる政府、大メディアの思惑とはうらはらに、私たちの意識はその深層において大きく揺らいでいる。3.11以後、私たちの言葉・表現は、そして文明はどのように変化していくのか。被災者の一人でもある関悦史氏が、松山巖氏に聞いた。


非常時にはオカマになれ!

松山  3.11のあとで、言葉と声、口調について考えましたね。言葉が文学、詩として熟するには時間がかかる。阪神大震災のとき、現代詩はすぐには出てこなかった。長田弘さんは「いまは何も書けない」と言ったそうです。あの人は福島だから。あなたも大変でしょう。

  自分の住んでるところ(土浦市)はたいした被害ではなかったのですが、それでも読んだり書いたりする気になりませんでした。

松山  うん。本を読む気にすらなれない。

  前日までリアリティのあった俳壇的トピックにまったくリアリティがなくなってしまいました。

松山  三月十一日の夜ね、ちょっと外へ出たら人がワーッと動いてる。車も渋滞。銀座まで見に行っちゃった(笑)。号外が出てるだろうと思ってさ、ずーッと歩いたの。ともかく帰宅難民がいっぱい。その後、関西の友人たちはまったくこちらの状況が分からないから、外国へ、九州へ逃げろとか、いろんなこと言ってきたね。できるはずないのに。

  離れれば離れるほど、とんでもないことが起こっているという印象が強くなる。『うわさの遠近法』〔註1〕にも、三原山噴火のとき、松山さんがたまたま海外旅行してたら、日本が全滅したような印象になってしまったというのがありましたね。

松山  あのときは上海にいたんですが、富士山がもうすぐ爆発するとか、滅茶苦茶なこと言うんですよ (笑)。エ?とか思うわけよ、一週間は日本のニュースなんて聞いてなかったから。そしたら東大で上海研究している奴が突然来たの。「いま相当酷いですよ」って言うから、「何があったの」「大島が大変なことになってて、みんな逃げてんですよ」それから「富士山が爆発するんですよ」とか言う。「ほんとかよ」と(笑)。

編集部 震災直後、この近辺の飲み屋も凄かったです。年末みたいに大勢の客が入っていました。

松山  みんな興奮してね、人の声を聞きたい、話したいんだ。それで知り合いがいそうなところへ行くわけ。知り合いの飲み屋がそうよ。当日は朝までずっと炊き出しをやったらしい。あの夜はカラオケは一杯でしたよ。パチンコ屋もずっとやってたし。

編集部 チェルノブイリのとき、男はみんなアルコール依存症になったそうです。

松山  阪神大震災のときもそう。みんな興奮症になっちゃって、あの夜以来、僕んとこに電話や手紙がよく来るんですよ。精神的に弱い奴とか癌患者とか、もともとダメな役者なんかが夜中にかけてくる。ともかく男たちが淋しがってる。声を聞きたい、話したいんだ。だからずっと話を聞いてね、最後に「オカマになれ」って僕は言ってるわけ。オカマになって「私、怖いわ、怖いわ」って言ってろって。怖くておもらししちゃえとか言うわけ(笑)。もう六十幾つにもなって、おもらしなんか僕だってみんなやってんだからいいんだって。それで女はオスカルになる。「僕は希望で生きていくんだ」と(笑)。

春日武彦という精神科の臨床医に聞いたら、「それは正しい。発想を変えればいい」って言うんですよ。精神的におかしくなってる人は頭が固まってる。とにかくそれから外れることだって。僕は権威がないから、そんなこと言うと極論扱いされるけど、男って建前だけで生きてるから料理も何もできやしない。だから「あら怖いわ。だけどお料理しなきゃ、お掃除しなきゃ」というふうに生きろって言ってるわけ。

  私は介護してるときは料理を作っていましたが、一人になってからはどうでもよくなりました。

松山  僕はほとんど自炊だな。

  自分のために作る手間がかけられない。食べさせる相手がいなくなったら、あるもんでいいやになってしまう。自分のためだけに生きるって、ものすごく難しい。他人のために何かやるとなると無利が効く。

松山  被災地へ食べ物を送ったら、向こうの人は果物に感動していました。ふつうカップ麺とか、でんぷん質の物を送るじゃない。でも、それだけじゃなくて、少しだけど林檎とミカンを入れたの。ビタミンが足りないだろうと思って。そしたら丸くて普通の物があることに感動している。四角いパックみたいなものばかりのなかで普通の物が出てきた、それに感激したって言うんです。それを早く言ってくれれば、イチゴだって林檎だってもっとあったのにさ。

編集部 (関に)救援物資は何がよかったですか。

  最初はとにかくガスが使えないので、火を通さないで食えるものということで、缶詰のたぐいが大量に来たわけですよ。これは一番初期の段階で、クッキーとかチョコばかり喰ってるといやになってくるわけです。そしたら四ッ谷龍さんが片付けの手伝いに来てくれて、そのときに駅で和食の弁当を買ってくれたんですよ。あれは異常に旨かった。

松山  美味しい物がいいんですよ。

  口に入れてバリバリ言わないもの(笑)。


3.11以後は言葉が揺れ動いて、やわ

  森ビルの近くにお住まいで、大変怒ってらっしゃるという話を聞いたのですが。

松山  怒るより呆れてる、あれは大変ですよ。超高層は建物、ブツとしては大丈夫なんです。揺れてもね。ただし中の物はすっ飛ぶ。人間もすっ飛ぶんですから。霞が関ビルが柔構造で建った時点で、建築の発想が百八十度変わった。つまり建物は大丈夫なんだけど、人間については知りませんよという発想。それがどういう結果になるかについては誰も不安を抱かない。不思議でしょうがないわけ。

今度の事態でこれがもろに出て来た。東京は震度五強くらいでしょ。それでも十五分くらい揺れて、室内の人間や物はすっ飛んでるわけですよ。その恐怖があるから、いま小金のある人は臨海副都心の超高層から逃げてますよね。公の機関が作ってきたアパートも超高層ですから、そこにいるしかないおじいちゃん、おばあちゃんは大変ですよ。エレベーターは止まっちゃう。歩くしかないし。無理が重なってきていることがいっぱいありますよ。でも、それは答がないわけで、「元に戻せ」と言ってもしょうがない。ゆっくり、ゆっくり戻す方法があるのかもしれないけど、世の中は不思議で、戦後にしてもこれで日本は民主化して変わるだろうと思ったら、そんなに戦前と変わらなかった。

  『群衆』〔註2〕と『うわさの遠近法』にはノモンハン事件が出てきます。古川ロッパや永井荷風の日記でも、つまり庶民の間でも、負けているのが隠しおおせなくなって、最後に大負けする。今回の原発事故も、いまはノモンハン事件あたりに相当するところで、そこから先は同じことをなぞり返すんじゃないかという感じがするんです。

松山  ちょっと違うけど、そういうことってずいぶんあるじゃないですか。日露戦争以来、東郷平八郎が日本は軍艦をでかくすりゃいいとずーっと主導したもんだから、戦艦大和まで行っちゃったわけですよね。だけど、太平洋戦争ではあんなデカいものぜんぜん機動力がなかった。逆に日本は負けてしまった。

原発にしても超高層にしても、大和級にデカイ。それは戦後の進歩主義が背景にあるからで、これが全部変わらないかぎりずっと残りますよ。みんなズルいから一石二鳥どころか一石五鳥ぐらいを考えるわけね。だけど、そういうわけにいかないんですよ。今度の原発の対応にしても、一石一鳥でも難しいわけ。一石一鳥ずつ潰せばまだ大丈夫だったのに。そういう問題ってのは、金があって、いろんなことができて、効率がよくてっていうのが進歩史観としてくっついているわけ。一石五鳥や六鳥で考えるのが原発であったり超高層。そういうデカイものをいまのまま進めるかぎりは変わりませんよ。

一石五鳥を捨て去ると日本はどうなるのかといえば、相当生活レベルは下がりますよね。それでいいのかと言われると「嫌だな」という部分は自分の中にもある。それを「いや、原発なくて生活が苦しくなってもいい」と言うのはちょっとおかしいと思う。できることならって考えていかなければいけないんだけれど、そこまでみんな言わない。反原発とか言っていても、どこかまだ無責任なところがある。当然考え方も変わるとは思いますが、反原発のためにも若い世代の人が活躍する場が生まれればいいんだけれど。

  ツイッターで、代替エネルギーとしてこれだけの手段があるのに、その研究がされてきていないという話題を探しだしてきている人たちもいます。

松山  それが精査できれば一番いいんだろうけど、風力発電には風力発電のデメリットも多いんですよ。うるさくてしょうがないんだ、耳に聴こえない周波も出る、鷹とか重要な鳥が死んじゃうこともよくある。難しいですよね。僕は専門的に言える立場じゃないし、言えない。反原発についても、ちゃんとした学者は一時間半か二時間はかけて話してるわけですよ。それを三分で喋るのは無理。風評になる。彼らは新しい原発は作るなとまでは言うが、それから先は言ってない。核廃棄したものをどうやって埋めるか。埋めたらいろんな問題が起きるんじゃないか、処理できないでしょと言ってる。僕がこれについて専門家風に言っても風評被害になる。

だから僕が『うわさの遠近法』を書いた時点といまとではぜんぜん違うんです。正確な情報を正確に言おうとしたら、筋道立てて言わなきゃいけない。ところが情報は正確であるんだけど、論理がおかしな方向に飛んじゃうわけ。その怖さがあります。全体的に言葉が揺れ動いて、やわになっちゃってる。自分たちの言葉を持っていない。いまはそういう状態になっているんじゃないでしょうか。

  ああやって作ってしまって止められないというのは、松山さん的世界の対極のもんですね。

松山  そういわれても困る(笑)。


ミステリーとイコノロジーが評論方法の土台
  松山さんが都市や建築を論じるうえで、文学テクストをからめるのは、最初の『乱歩と東京』〔註3〕から一貫した手法としてありますね。

松山  それはひとつはね、僕は推理小説がものすごく好きだったの。小学校の時からポーとか、エラリー・クイーンとか、もちろん乱歩とか、横溝とかが好きだったから、僕の書いてるものはミステリー、謎解きにしたがるところが絶対ありますね。自分でそれはよくわかっている。

もうひとつは、大学を卒業して友達と二人で建築事務所をやっていたとき、フランス革命期の建築家について勉強会を始めたんです。それで東大の博士課程だった連中に声をかけたんですよ。あることで知り合ってね。彼らはほんとに歴史家で、ものすごく勉強してるわけ。いまはみんな偉くなりましたけどね。そのとき彼らの一人がブロッホ〔註4〕とか、アドルノ〔註5〕とか、ベンヤミン〔註6〕とか、フランクフルト学派〔註7〕を──あのころ新鮮でしたけどね──持ってきた。

そこでこっちも対抗しなきゃいけないということで、同じ反ナチというか、ヴァールブルク学派〔註8〕──アビ・ヴァールブルク〔註9〕が研究所を作ってやったフランセス・イエイツ〔註10〕とか、パノフスキー〔註11〕とか、勉強したんです。パノフスキーの主著に『イコノロジー研究』という有名な本があります。それをかなり読みましたね。それまではイコノグラフィーと言って、方法としては美術の図像、図像の象徴を見るだけで終わってたんだけど、イコノロジー〔註12〕はその社会的構造を見ようとするわけ。それを勉強してたために、これを文学研究やるときにやれないのかなと思ってた。だいたいね、イコノロジーは探偵小説の手法だと気がついた(笑)。

そういうことが重なって、アールデコ論を書いてくれと頼まれたとき、もともと推理小説好きですから、江戸川乱歩のものを。僕はニューヨークにも行ってないし、ヨーロッパのアールデコもちゃんと知りませんから、そんなものは書けないけど、同じ一九二〇~三〇年代のことなら、江戸川乱歩についてだったら、なんとなく勘が働くと。あとで大学の卒業論文とか、ドクター論文とか送ってくる人がずいぶんいて、何故かなと思ってたんだけど、当時、大衆小説はほとんど文学部の論文対象にならなかった。不思議なことでね。でも、僕が書いちゃったら、これでもいいやという世界が広がったらしくて、いまはかまわなくなって、むしろ大衆文学から読む人が主流になってきましたよ。その手法として、僕はパノフスキーのイコノロジーの方法を自分なりに涵養しているつもりなの。

  いまお話に出たベンヤミンとかは、関心系としては松山さんと重なるけど、ちょっと擦れ違っているような。

松山  もちろんベンヤミンは友達がやってたり、そのころ柏木博がベンヤミン、ベンヤミンってずっと同じことばっかり言うから、それはやりましたよ。川村二郎さんは日本で最初にベンヤミンを訳して紹介した人だけど、文芸誌に書こうとしてもベンヤミンは載せてもくれなかったんで、ルカーチ論のふりして書いたら、すぐ載せてくれたって(笑)。「ルカーチ〔註13〕なんて興味ないんだけど、それ実はベンヤミンについて書いているんだ」と言われたときに、川村さんは偉いなと思った。そのくらいルカーチとか左派がもてはやされ、ドイツ系はほとんど排除されていた時期に、ベンヤミンを出したかった。川村さんはそういうとこあるからね。

それからあとになると日本でもベンヤミンはずいぶん紹介されるようになったけれど、僕らが読んでいたのはようやく受け入れられ、話題になってきたころでしょう。それとかヴァールブルク研究所のものもいくつか訳され始めていた。建築で言えばフランセス・イエイツの『記憶術』だとか、ルドルフ・ウィットコウワー〔註14〕の『ヒューマニズム建築の源流』とか、名著ですけど、そっちへ行くと話が建築寄り過ぎるね。

  建築に関心を持ち始めたのは文学より先ですか。

松山  いや、ぜんぜん。儲かるだろうと思って行っただけです(笑)。高校三年くらいに、どこへ行こうかと考えたとき、私立大はお金がないから行けない。国立だったら行っていいよと親父がね。実際はその金もないくらいだったらしいんだけど、兄貴が大学行けなくて高校から就職してましたから。だけど、そう言われても東京で行ける大学は少ないわけですよ。当時、国立大学は一期校、二期校に分かれていて、一期校が東京芸大。なぜ建築を受けようと思ったかというと、絵も中途半端だけれども学科が易しい(笑)。絵は褒められたよ。

  絵って設計図面ですか。

松山  違う違う。外を描いたり、石膏デッサンしたり。芸大には大きな彫刻がいっぱいあるんです。石膏室という大きな建物にミケランジェロとかロダンのバルザックとかの石膏像がバーっとあるんですよ。僕らのときはそこが試験会場だったな。外でも描かされた。試験が三次あるの。最初が筆記試験で次が絵の試験。最後が立体構成といって、ものを作る。そんなわけで単純に言って行くところがないから一期は芸大受けて、二期は外語大のギリシャ語学科を受けようと思ってた。それはギリシャ悲劇が好きだったってだけなの(笑)。でも受けなかった。芸大受かるつもりだったから。ところが落っこちちゃって癪に障って、親に「もう一年やらせてくれ」って頼んだの。

  ギリシャ悲劇の中でとくに好きな劇作家は。

松山  エウリピデスとか、あのころはやっぱり『オイディプス』とか好きでしたよ。映画や芝居も観に行ってたりした。ギリシャからも劇団が来たけど、それはあんまり感心しなかった。久世光彦さんが、自分は東大のギリシャ悲劇なんとかという会に入ってて、日比谷の野音に出演してたって言うの。僕、それ観てるんだよね。門番、衛兵になっていたと言うんだけど、そこまではわかんないよね。なんの台詞もなくてズーッと立ってるだけの役なんだから(笑)。それは覚えてないんだけど、その舞台は観てる。好きだったからって言うか、そういうのに憧れる時期があるじゃないですか。


(つづく) ≫中篇


〔註1〕『うわさの遠近法』松山巌著。青土社、一九九三年。のち講談社学術文庫、一九九七年。ちくま学芸文庫、二〇〇三年。一九九三年度サントリー学芸賞(社会・風俗部門)受賞。明治から大正・昭和に至るまでの膨大な噂を検証し、欲望と権力の相関から群衆の精神史を詳らかにした労作。

〔註2〕『群衆』松山巌著、副題「機械のなかの難民」。読売新聞社、一九九六年(叢書「二〇世紀の日本」十二巻)。中公文庫、二〇〇九年。一九九六年第四八回読売文学賞(評論・伝記部門)受賞。漱石、啄木、大杉栄、夢野久作らを通じ、無名の人々にとっての日本近代とは何かを探究。

〔註3〕『乱歩と東京』松山巌、最初の著書。PARCO出版局、一九八四年。のち、ちくま学芸文庫、一九九四年。双葉文庫、一九九九年。一九八五年第三八回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)受賞。都市文学としての乱歩/探偵小説、乱歩/探偵小説を通しての都市を描出した。



〔註4〕ブロッホ エルンスト・ジーモン・ブロッホ(Ernst Simon Bloch、一八八五年~一九七七年)。ドイツの哲学者。ユートピア思想、表現主義の影響下に独自のマルクス主義思想を展開。著書に『ユートピアの精神』『希望の原理』『この時代の遺産』等。邦訳多数。

〔註5〕アドルノ テオドール・W・アドルノ (Theodor W. Adorno、一九〇三年~一九六九年)。フランクフルト学派を代表するドイツの哲学者、作曲家。ナチスに協力した一般人の心理的傾向を研究。ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』では文化産業批判も展開。

〔註6〕ベンヤミン ヴァルター・ベンディクス・シェーンフリース・ベンヤミン(Walter Bendix Schonflies Benjamin、一八九二年~一九四〇年)。ドイツの文芸批評家、思想家。主要論文に「複製技術時代の芸術」「パサージュ論」等。断片的な著作が多いが後世への影響は多大。

〔註7〕フランクフルト学派 一九三〇年、マックス・ホルクハイマーのフランクフルト大学社会研究所所長就任に始まる、社会理論・哲学を研究するグループの名称。マルクス主義を思想的基盤とする。前出のアドルノ、ベンヤミンのほか、フロム、マルクーゼ、ハーバーマス等が代表的思想家。

〔註8〕ヴァールブルク学派 アビ・ヴァールブルグを始祖とする思想運動の流派。造形芸術における秩序表象の内的意味を、神話、象徴、寓意などの観点から探究。その射程は美術研究の枠にとどまらず諸学の総合にまで及ぶ。パノフスキー、ゴンブリッチ、イエイツ、ウィットコウワー等が参画。

〔註9〕アビ・ヴァールブルク アビ・モーリッツ・ヴァールブルク(Aby Moritz Warburg、一八六六年~一九二九年)。ドイツの美術史家。考古学、医学、人類学、宗教史も修め、ヴァールブルク文化学図書館を設立。「神は細部に宿りたまう」は、ヴァールブルクの言であるとも言われる。

〔註10〕フランセス・イエイツ フランセス・イエイツ( フランシス・イェイツ、FrancesAmelia Yates、一八九九年~一九八一年)。イギリスの思想史家。女性。ヴァールブルクの影響下、ネオプラトニズム等ルネサンス期の精神史を研究。晩年、ロンドン大学付属ヴァールブルク研究所名誉研究員。

〔註11〕パノフスキー エルヴィン・パノフスキー(Erwin Panofsky、一八九二年~一九六八年)。ドイツ出身のアメリカの美術史家。図像解釈学(イコノロジー)研究の創始者。『イコノロジー研究』『ゴシック建築とスコラ学』『象徴形式としての遠近法』等邦訳多数。

〔註12〕イコノロジー パノフスキーが提唱した学問。図像解釈学と訳される。イコノグラフィー(図像学)が西洋絵画における神話・キリスト教思想等の寓意表現の絵解きを主とするのに対し、イコノロジーはより深く、作品を通して歴史意識、精神、文化を探り出そうとする。

〔註13〕ルカーチ ルカーチ・ジェルジ(ゲオルク・ルカーチ、Szegedi Lukacs Gyorgy Bernat、一八八五年~一九七一年)。ハンガリー出身のマルクス主義哲学者。大臣経験を持つ政治家。自然弁証法に対し、社会的実践を通じての主客合一の立場を取った。主著『歴史と階級意識』。

〔註14〕ウィットコウワー ルドルフ・ウィットコウアー(ウィットカウアー、ウィトコウワー、Rudolf Wittkower、一九〇一年~一九七一年)。ドイツの美術史家。『ヒューマニズム建築の源流』でパノフ
スキーの理論を建築に応用、一六世紀の建築家パラーディオと当時の音楽理論の関係を分析。

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