【週刊俳句時評72】
直喩という愉しみ
松尾清隆
このところ、直喩法の用いられた作品に注目している。「~のような」「~のごとく」といったよく目にする手法である。
レトリックとしては初歩的で、ごくありふれているだけに、ありきたりなものは発表できないし、あまり頻発もできない。かえってハードルが高いのである。したがって、句集などに収められているも
のは自ずと、作者にとって快心の作ということになるのではないか。そんな仮定のもとに句集を読んでいくのはけっこう面白い。
じっさいに最近読んだ句集から直喩法の用いられた句を二句ずつ引
いてみよう。
秋蝶や言葉を探すやうに舞ふ   山田佳乃『春の虹』
 
空蝉やまだ考へてゐるやうに   同 
 
こぼしたる水のごとくに犬ふぐり 津川絵里子『はじまりの樹』
 
おとうとのやうな夫居る草雲雀  同 
 
柩ふと湯船のやうにふゆもみぢ  峯尾文世『街のさざなみ』 
花嵐居留守のごとき修道院    同  
口移しするごとく野火放たれぬ  堀本裕樹『熊野曼陀羅』
 
銀漢を荒野のごとく見はるかす  同 
最近読んだ歌集からも直喩法の用いられた短歌を二首ずつ。
  
飲み会がはけて駅まで歩いてゆく大きな砂場をゆくようにゆく
永井 祐『日本の中でたのしく暮らす』 
朝からずっと夜だったような一日のおわりにテレビでみる隅田川
同 
 
冬空にフカヒレ干されからからと洗濯物のやうに回れる   
大口玲子『トリサンナイタ』
 
男の子ですよと言はれひとごとのやうに曖昧に頷きたりき
同 
 
春怒濤とどろく海へ迫り出せり半島のごときわれの〈過剰〉が 
田村 元『北二十二条西七丁目』
 
マークシートの円をわづかにはみ出して木星の輪のやうなさみしさ 
 同 
 
花火の火を君と分け合ふ獣から人類になる儀式のやうに 
山田 航『さよならバグ・チルドレン』
 
積乱雲に呼ばれたやうな感覚を残して夏の曲馬団去る 
同   
現代詩からも部分的に引用させていただく。 
 
線を描いていると
 
線がそのまま身体の動きの痕跡のようで
 
それを目で確かめているうちに
 
自分が取り戻され
 
元気が出る
 
と友人の画家はいう
 (「成りゆきの葉」より )     
野村喜和夫『難解な自転車』
 
(罠)
 
みえない
たわわな縄
のようだ (「小言海」より )
みえない
たわわな縄
のようだ (「小言海」より )
同  
三つの詩形の作品を直喩法に注目しながら読んでみて感じたのは、直喩表現の成否という観点から読む場合には、ある程度おなじように愉しむことができるということ。
もちろん、音数のちがいによって「~
のような」の「~」に割り当てられる長さに差があるなど、まったく
おなじというわけではない。長いほうが、より微細な感覚を伝えられ
るような気もするし、短いほうが切れ味のするどい表現になる気もする。そんなことを考えながら読むのはなかなか愉しい。 
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