2012-10-07

加本さん、お疲れ様でした 澤田和弥

加本さん、お疲れ様でした

澤田和弥



拙稿「加本さんをご紹介します」にて加本泰男さんというとても魅力的な俳人をご紹介いたしました。続編である本稿では、加本さんが描いた障害者、闘病について、触れさせていただきたく思います。

加本さんは連作を何篇も遺されました。そのなかに「ぼくらの叫び」と題された20句があります。まずはそちらからご案内させていただきます。

  すみませんすみません車椅子の夏

  こちら車椅子夏の階段超せぬなり

  麻痺したる口の涎や夏木立

  風薫る知的障害者の横顔よ

  風薫る年金だけで暮らしおり

  月涼し動かぬ足を持ち上げて

  紫陽花や家族の中の障害者

  打水に松葉杖濡れてしまいけり

  脊椎の壊れておりて夏の風

  恋をして苦しい詩を書きソーダ水

  障害のからだ見られしプールかな

  動かない足が浮き来るプールかな

  家の中はしゃいでおれば夕立かな

  孑孑や障害者たちの交流会

  孑孑に強い日差しの当たるなり

  車椅子夏シャツの腕太かりし

  草いきれ転がっている松葉杖

  海の家静かに眠る障害者

  浮人形死にたくないと浮いて来る

  青年や脳性麻痺の夏である


一時期ですが、私も車椅子を利用したことがあります。どうしても人の多いところに出なければならないとき、その気持ちはまさに「すみませんすみません」のエンドレスリピートでした。「こちら車椅子」に冒険家のようなユーモアがありますが、超えられないのはちょっとした「階段」。車椅子で一人では越えられません。それがたとえわずかな段差でも。街は段差ばかりです。車椅子利用者を拒みます。「動かぬ足を持ち上げ」るのはたとえ月の涼しい夜であっても、苦い時間です。毎日、加本さんのお世話をなさったお姉さんのお宅には知的障害の方がお一人いらっしゃると、加本賢一郎氏のあとがきにあります。ここに登場する「知的障害者」はもしかしたらその方かもしれません。または同じ「障害者」として、知り合った方かもしれません。「恋」の句があります。これは連作「夏の恋 二十句」にある

  ホルン吹く少女もなぜかソーダ水

と何か関わりがあるのやもしれません。しかしそこに登場するのは「苦しい詩」です。「孑孑」からは自嘲を感じます。苦しみや悲嘆、自嘲のなかでも思うことは最終的には「死にたくない」ということです。私はこの連作に初めて出逢ったとき、強い衝撃を受けました。なかにはこれを「露悪的」ととる方もいらっしゃるかもしれません。ただ、私は「車椅子」という共感を覚える部分もあったせいか、この世界と対峙することにいささか怯えもしました。これは俳句のなかの虚構ではなく、まぎれもない加本さんの「現実」だと思います。

加本さんの第一句集にして遺句集となった『車椅子』(平成22年、文學の森発行)の一番最初の句は

  行く春を微熱の夜に見送った

という体調不良の際のものです。しかし句からは或る種のロマンティズムやドラマ性が感じられます。加本さんは「詩人」であります。

  鈍行の我が人生や紅葉舞う


病気の進行による歩行困難により、退職を余儀なくされたときの句です。

  膝裏を直撃したる寒波かな

障害のある左下肢の膝裏に、寒波は激痛を与えたのでしょうか。

  癒え切らぬ傷とガーゼと春の月

「傷とガーゼと春の月」の並列が印象的です。そしてそれらはどれも「癒え切ら」ない。

  亀鳴くや失意の床の夕まぐれ

春の夕べ、この「失意」は亀が鳴くようなものなのでしょうか。奥歯を噛み締めるような苦しさを感じます。

  ゆるゆると流れし死蛾を浚いけり

死に対して冷静で客観的な描写です。「ゆるゆると」が何か痛々しい。

  失いし職思う日よ枇杷の花


職は辞めたものではありません。失ったものです。

  両足に電気流され二月尽

両足に流された電気は、回復という春への兆しでしょうか。それとも回復の見られない、まだまだ寒い「失意」でしょうか。

  蚊の声す足が疲れておりにけり

加本さんにとって疲れた「足」は「蚊の声」のようなものだったのでしょうか。

  ががんぼやだんだん貧しくなる暮らし


「ががんぼ」がユーモラスでもあり、痛々しくもあります。

  晩秋の犬の貧しき食事かな

「貧しき食事」しか与えられぬくやしさ。

  冴ゆる灯や棒の如きの足痛む

「棒の如き」という比喩に絶句します。

  桜湯やどうにも淋しい夜がある

桜湯というめでたいものを口にしても、どうしても淋しくてならない一人の夜。

  春の土ゆく自転車のよたよたす

オノマトペがユーモラスでありますが、自転車を漕ぐこともままならぬようになりました。

  蟻穴を出て友たちを待っている


加本さんも待っています。

  五月闇だれも見ていぬテレビかな

五月闇のなか、テレビだけが淋しく光り、声を漏らしています。

  朝電話あってそれから無い盛夏

朝、一本の電話。それからは何もない。うだるような暑さのなか。

  行く夏の棒切れのような男かな


ご自身のことを言っているのでしょうか。

  電動の車椅子にも秋日和

やすらぎを感じます。

  空を見て死んでおりけり冬の蠅

死に対する冷静さと同時に、冬の蠅への悲しみ。「空を見て」をわずかばかりの希望ととるか、死の空虚ととるか。

  冷たさや頭を下げることばかり

「ぼくらの叫び」の「すみませんすみません」を思い出します。

  墓洗う兄のうしろの車椅子

墓を洗うのは兄です。自分はその後ろで何もできません。

  秋晴や猫はどうしているのだろう

入院中でしょうか。猫たちのことが気になります。

  車椅子のバッテリー黒く彼岸かな

加本さんにとって、車椅子は体の一部のようなものかもしれません。

  病室を出られない日々枇杷の花

失職を思っていた日も枇杷が咲いていました。

  雪が降る電動車椅子は赤

赤と白の対比、破調が印象にのこります。

  車椅子冬には冬の坂がある

寒い寒い冬の日、車椅子にとっては坂道もまた「厄介な奴」です。

  わいわいと枇杷もいでいる手の沢山

「枇杷の花」の頃はさびしい思いでしたが、実がなる頃には周囲もにぎやかになってきました。

  夏雨と役に立たない男かな

自嘲、といったところでしょうか。

  秋の朝隣のベッドに誰もいない

ふとした朝の目覚めに、強烈に襲ってきた不安。

加本さんはとても明るく、「おもろい」方であることは拙稿「加本さんをご紹介します」に書かせていただきました。彼には他にも明るく楽しい句がたくさんあります。しかし病気と障害と障害者ということに加本さんは生涯戦い、そして疲れ、自らを嘲笑うこともありました。この両面をもってして、加本さんの句はきらきらと輝いています。私は加本さんが大好きです。

加本さんについてはご自身の行動範囲内の地名や生活が滲み出た、それこそ句集を片手に大阪を歩きたくなるような句があります。また、現代仮名遣いと切れ字と口語と古語を巧みに織り紡いだ「カモト語」で句作をされました。それは押韻をとても意識なさっていた形跡からもわかるように、「音」というものに対して、加本さんはとてもこだわっています。これらについて私はまだまだ勉強不足であり、加本さんの魅力をお伝えするには充分ではありません。またの機会とさせていただけましたら幸いに存じます。

最後に加本さんの一句を。

  大寒のパソコン画面のフリーズかな

加本さんはパソコンをいつも使われていたそうです。平成17年の頃だとまだまだ今よりもフリーズすることが多かったでしょう。「いやいや。困ったわ」と独言する大寒の部屋。加本さんの最期の一句です。加本さん、お疲れ様でした。

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