俳句の自然 子規への遡行09
橋本 直
初出『若竹』2011年10月号
(一部改変がある)
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以前の連載(第5回)で、見世物のパノラマで見る風景と気車の車窓から見る風景が、結果として風景を風景として見出す自我(風景から疎外された自我)を構成することになるという構造の類似を指摘した。若いころの子規自身はパノラマをどのように考えていたのか詳しくはわからなかったが、「病床六尺」に以下の記述を見出したので少し検討を加えておきたいと思う。やや長い引用になるが許されたい。
西洋の審美学者が実感仮感といふ言葉をこしらへて区別を立てゝ居るさうな。実感といふのは実際の物を見た時の感じで、仮感といふのは画に書いたものを見た時の感じであるといふ事である。こんな区別を言葉の上でこしらへるのは勝手であるが、実際実感と仮感と感じの有様がどういふ風に違ふか吾にはわからぬ。例へばパノラマを見るやうな場合について言ふて見ると、パノラマといふものは実物と画とを接続せしめるように置いたものであるから、之に対して起る所の感じは実感と仮感と両方の混合したものであるが、其実物と画との境界に在るもの即ち実物やら画やら殆どわからぬ所のものに対して起る所の感じは何といふ感じであらうか。若し画に書いてあるものを実物だと思ふて見たならば、其時は画に対して実感が起るといふても善いのであろうか。又実物を画と誤つて見た時の感じは何といふ感じであろうか。其時に実物に対して仮感が起つたといふても善いのであらうか。さうなると実感か仮感か、仮感か実感か少しも分らぬではないか。元来画を見た時の感じを仮感などゝ名付けた所で、其仮感なるものの心理上の有様が充分に説明していない以上は議論にも成らぬことである。吾々が画を見た時の感じは、種々複雑して居つて、其中には実物を見た時の実感と、同じやうな感じも幾らかこもつて居る。其外彩色又は筆力等の上に於いて美と感ずるやうな感じもこもつて居る。然るにそれを唯仮感と名付けた所で、どんな感じを言ふのか捕へ所のないやうな事になる。「病床六尺」明治三五年七月二九日。傍線引用者)晩年の子規は、パノラマを例にしていまでいうところのバーチャルリアリティの問題を扱っている。実物から実感をうけるのは当然だが、画から受ける実感の存在を指摘し、見る側が実物からうける「実感」と、描かれた画から受ける「仮感」を単純に二分はできない、ということを述べている。しかし、これは少し経験に即して考えてみればごく当たり前の話だろう。
例えば、美術館の写実的な風景画や静物画を見ている時、現実として画を見ている「実感」と、本物ではない風景を見ているという「仮感」と、「仮感」から経験的に引き起こされるかつての「実感」が画を見ている人物の頭の中では同時に存在するのであって、それぞれすっきりと境界の区別がなされているわけではない。見ようによっては、画の世界に没入してわきおこる「実感」もあるはずで、子規の言うようにその区別はほぼ不可能だ。逆に言えば、だからこそバーチャルリアリティの映像技術の利用が可能なはずで、ありのままの人間の「感」とはそのようなものであるはずだ。
注目したいのは、子規が「実物を画と誤つて見た時の感じ」を「実物に対して仮感が起つた」と仮定していることである。この文脈は「実感」と「仮感」という用語の批判のためにあるから文の主旨からは逸れるが、この物言いをつきつめると、いわゆる「写生」において対象をありのままに写しとるといっても、その実物からうけた感じを写したものにそれ以外(例えば類似の画を見た経験)からの感じが混ざりうるということを、子規はちゃんと分かっていた。先に実物に対する仮感を考えた子規が「画を見た時の感じは、種々複雑して居つて、其中には実物を見た時の実感と、同じやうな感じも幾らかこもつて居る」と書く時、この「画」と「実物」とを反転させる発想がまったくなかったと言えるだろうか。
子規が画の技法であった「写生」を俳句にもちこんで俳句の近代化を成し遂げたというのが近代俳句史の定説である。そう言われる時の、子規の「写生」はただ対象をありのままに写すとする辞書的な理解は、ずいぶん単線的で無邪気とでもいいたくなるような説である。にもかかわらず、それと連句を廃したことで前時代の俳諧と画期を作ったとされている。だが、対象をありのままに写すという時、見えているもののなかに過去の経験が混ざってくることがまったくなかったなどと果たして子規は考えていただろうか。
ありのままを写す、とは実は厄介な言い回しである。表現対象をありのまま言葉に置き換えるのか、ありのままと感じたものやこと、あるいは心情をそのまま読者が再現しうるように言葉に置き換えるのかでは話はまったくちがってくる。
さらに一個人が客観的に何かを見ているということと、その見た対象から感じ取った何かを言葉で描き出すことの間にあって、先験的表現を精査し慎重にそれを排除して表現することと文字通り見たままありのままを写すということは結果は似てくるが過程がまるで違う。以前触れたように、子規は小説ほどのことはできないと自覚しつつ、俳句は文学であり人間の想念(イデー)、つまり個の表現を紡ぎ出すものだと充分に意識していたわけであるから、ありのままに写すことを写生だとする子規の言を単純な言葉への置換のように理解することには慎重であるべきだ。子規の写生はいわゆるリアリズム(写実主義)と同じではないように思われる。
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