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さて、今回は第三句集『骰子』の「昭和五十六年」から。今回鑑賞した句は、昭和56年の夏から秋にかけての句。56年8月には丹波篠山で鍛錬会を催していますが、今回鑑賞した〈菱の桶終始大きな蠅がつき〉〈菱採りしあたりの水のぐつたりと〉の二句はそのときの句です。爽波本人による回想文がありましたので、こちらを御覧ください。
菱の桶終始大きな蠅がつき
丹波篠山は城下町のたたずまいをタップリ残した静かでまこと気持の良い町である。
もう六年ほど前になるが篠山で「青」の鍛錬会を催し、たまたまお城の濠で二人の男が菱採りをやっているのを目撃し、「千載一遇の機会」とばかり二日間に亘ってその一部始終をくまなく写生して八十句ほどを作った中の一句である。
菱採りには初めて出会った。残念ながら小舟ではなくてゴムボート、それに長らく水に浸かっていて水の冷えから身を守るための潜水着のようなものを着込んでの作業だったが、私は全く予想だにしていなかった菱採りとの「出会い」に大いに心を昂らされた。
私がお濠ばたに腰を下ろして句帳を拡げているそばを二日間に亘って何十人もの人が通り過ぎて行った。私が菱採りの状況を写生したらとばかりに声をかけるのだが、長い人でもせいぜい二十分くらいしかその事に辛棒しきれないで立ち去ってゆく。
さてこの句だが、句集『骰子』には次の二句の真中にはさまって載っている。
菱を採りすすみ菱の香立ちこめし
菱採りしあたりの水のぐつたりと
「一句独立」の立場からは、この句だけを見てすぐさま菱採りの句とは分からぬかも知れないし、または「蠅」が季語の句、それにしても「菱の桶」とは一体何の事だろうと首をひねられてしまっても仕方がない。この一句だけ抽き出して何か書くという甚だつらい立場に立たされてしまった。 (波多野爽波「つらい話」)
澄む水に莟の百合の折れ浸り 『骰子』(以下同)
澄みわたる水のほとりの百合。まだ花は開かず莟のままだが、茎からぽっきり折れ、莟が水面に入ってしまっている。中々に複雑な景だが、下五の畳み掛けがその複雑な景をくっきりと見せて勢いすら感じさせる。このように、自然の中に意外性は潜んでいるのだ。
禿筆を束ね捨てけり秋の蝉
本来夏の季語であるものを、「秋の」と用いる季語、例えば掲句の秋の蝉などは、季語自体が過ぎ去った夏の名残りをたっぷりと内包している。穂先の擦り切れた禿筆もまた、夏の間の仕事ぶりを、目に見える形でありありと見せてくれている。中七の言い切りが潔い。
菱の桶終始大きな蠅がつき
菱は夏に白い四弁の花を水面に開き、花の後に菱形の実を付ける。実は、若いうちは生食、熟したものも茹でたり蒸したりして食べられる。掲句は水面の菱を取り進む作業の一場面。水中での作業はなかなかの重労働だが、我関せずといった顔で蠅が翅を休めている。
菱採りしあたりの水のぐつたりと
句集では菱採りの句が三句並んでおり、その最後の句。舟や盥舟に乗って、水面の菱を採ってゆく。その作業が終わった後には、秋の日に映えていた菱は無く、薄暗い水面が広がっている。その様を「ぐつたり」と表した所が独特で、水を生々しく感じさせる。
爽やかや先づは床几の上を掃き
細長い板に脚を付けた床几。その上を掃除するのに、拭くべきか掃くべきか判断は分かれるが、掲句は爽秋の頃。湿度もなくさらりと乾燥して、床几の上の塵もさっと掃くだけで落ちてくれる。露を置く頃になるとこうは行かない。一年の中でも特に快適な時期だ。
鶏頭や海近くして蟻聡し
聡明な蟻とはどんな蟻だろうと考え始めるとき、心は既に掲句の求心力に捕らわれている。列を乱さず歩み、異変には即座に反応する、そんな蟻が聡明な蟻だろうか。中七から下五へのつながり方は屈折を孕んで、蟻と海とそして鶏頭の響き合いに複雑さを加えている。
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