第260号~第269号より
嵯峨根鈴子さんのオススメ記事
第267号 2012年6月3日
【俳誌を読む】 豆の木の人々『豆の木』No.16を読む……しなだしん
第269号 2012年6月17日
【俳誌を読む】それぞれの心地よい地平 『豆の木』No.16を読む……西丘伊吹
『豆の木』NO・16をしなだしん氏と西丘伊吹氏の二人が読み解いている。『豆の木』の多分ほとんどのメンバーの一句を挙げているのだと思われる。
おもしろいと思ったのは、採り上げている人の俳句が、一句を除いて、全く重ならないことに、改めて俳句の世界のおもしろさと得体の知れなさを思った。ただ一句重なった句とは〈祝日の風鈴市に着水す 小野祐三〉これのみ。
また両氏の句会の報告も、それぞれに超結社の句会の在り様をつぶさに見せてくれて、興味深いものだった。
第260号2012年4月15日
野口 裕 林田紀音夫全句集拾読210~218
野口裕氏の『林田紀音夫全句集拾読』は、今回が特にと言う訳ではなく毎号楽しみにしている一本である。ここでは昭和55年、56年の未発表句を拾っている。なぜ未発表なのか、『海程』、『金剛』など他の俳誌に発表した句などとも読み比べて、答えを出すというより、氏なりの考えを割りにあっさりと述べている。これだけ読み続け、書き続けるのは並大抵のことではないだろうが、福田基氏編纂の労作を読み継いでゆく意義は大きい。
川名大氏は紀音夫の第一句集『風蝕』を昭和史の表現史に位置づけて「疎外された無名の庶民像 林田紀音夫」と掲げて的確で厚みのある論評をされているが、この野口氏の稿により紀音夫の晩年までの俳句の変遷にあらためてスポットを当ててみるのも面白い。
また片山由美子氏は『俳句研究年鑑』2007年の句集ベスト5に『林田紀音夫全句集』を挙げて述べている。少し長いが挙げさてていただく。
正直なところ本句集を読むまで、林田紀音夫の句といえば〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉を知るのみだった。
私は無季俳句を作らない。俳句とは何かを説明するにはまず、季語をもつ五・七・五の定型詩であると言う。では季語がなければ俳句ではないと切り捨てるか、ということになると、必ずしもそうではない。無季俳句の可能性を追求することを否定するつもりもなければ、その人たちが作るものが俳句ではないなどという権限もない。だが積極的に評価してこなかったのは、魅力ある無季俳句にほとんど出合わなかったからということになるだろうか。
しかし、本句集に収められた作品のいくつかは、正直なところ私にとって禁断の誘惑を感じさせた。
黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ
木琴の夕べは骨の音探す
電線が傷みて暗き檐に入る
夕刊を買ふみな家を別にせり
絵硝子の日に悲しみの色を足す
こうした作品は、季節感というものを必要としない。無季俳句とは、季語がなくても季節感を感じさせる俳句でもなければ、無論、季語が欠けている俳句でもない。有季定型派の人々は、無季俳句を読むときに基本的な方法を誤りがちであることを反省させられる。
これからも野口裕氏に付き合ってゆきたいと思う。
≫第260号
≫第261号~第269号
0 comments:
コメントを投稿