弁士
山口優夢『残像』を読む
澤田和弥
山口優夢氏の第一句集『残像』は二部構成からなる。第一部「どこも夜」、第二部「どれもあかるく」。どのように分けているのかは定かでない。ともに92句所収。92は「クニ」。国を二分するその境目にいささか興味を抱いたのは、その国境を越えた途端に句の印象が変わるからだ。第一部は溢れくる感性の中に17音ではおさまりきらないストーリーを感じた。どの句もその内に一篇の小説を孕んでいるかのようである。対して第二部は句からインスパイアされる映像等はあるにせよ、17音が17音の中でおさまっている。句には俳句そのものが内在している。変な言い方だが、そのように感じた。
句集を開く。題名ともなった冒頭の句にまず出会う。
あぢさゐはすべて残像ではないか
読者はこの問いかけに立ち止まる。どう応じたらよいのか。一頁にその一行。ただそれだけ。紫陽花を思い浮かべる。あれは実物だったのか、それとも残像か。思い出せば思い出すほど、掲句に肯っている自分に気づく。感覚的でありながら理知的な説得力。不思議な余韻にクラクラしつつ、次の頁へ進む。
虹を歩かば足首のさびしからむ
「虹を歩かば」。虹を渡ってくるものに、妖怪まくらがえしがいる。虹の向こう側の夢の世界からやってきて、寝ている子の枕をひっくり返す。いや、違う。それじゃない。では、童話。メアリー・ポピンズのような。それも違う。青年だ。虹を歩いているのは青年だ。だからこそ「足首のさびしからむ」である。その青年はどこからどこへ行くのか。虹を渡って。足首をさびしくさせてまで。そこにストーリーの大きな湧き上がりがある。
芝居小屋からうつくしき火事になる
春雨や木の階段が書庫の奥
戦争の次は花見のニュースなり
取り落したる林檎転がり止まり夜
むかし空だったビルの片隅にて排泄
夜着いて朝発つ宿の金魚かな
以上6句、第一部より。つづいて第二部。
心臓はひかりを知らず雪解川
きんつばに硬き四隅や春の空
小鳥来る三億年の地層かな
ぶらんこをくしやくしやにして遊ぶなり
飛ぶもののなくて水族館は夏
村よりも町しづかなり朝桜
野遊びのつづきのやうに結婚す
以上7句、第二部より。
●
ここにいたって感じることは、第一部には作者が登場する。句を読むとどうしても作者が頭の中に現れる。ただし主人公ではなく、弁士として。彼は雄弁に句を語り、ストーリーを語る。そして彼が弁士をしていること自体がまたストーリーを喚起する。二層のストーリーの主軸として句が存在する。
対して、第二部に作者は登場しない。句だけが提示される。ぶらんこをくしゃくしゃにして遊ぶ子も水族館も町も現れるが、不思議と作者の存在を感じない。17音だけが、ただそこにある。
これをもって第一部よりも第二部の方が優れているというつもりは毛頭ない。どちらも高い完成度を有し、どちらもすばらしい。ただ、その国境が何なのか。考えるのだが、答えが浮かばない。浮かばないからこそ、この句集により惹きつけられるのかもしれない。魅力的な句集である。浮かばぬ頭に何かが見える。うっすらと、何かが。紫陽花だ。優夢さん、あなたが植えてくださった紫陽花は確かに残像でありました。そしてあなたは、櫂未知子氏が栞に書いておられるように「或る『天才』」なのだと思います。
しかし私は忘れません。
むつつりと牛すぢ煮込む神無月
あなたが「むつつり」であることを。
2013-02-03
【句集を読む】弁士 山口優夢『残像』を読む 澤田和弥
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