2013-05-19

朝の爽波67 小川春休



小川春休





67



さて、今回は第四句集『一筆』の「昭和六十年」から。今回鑑賞した句は、昭和六十年の冬から春にかけての句。前年の暮から一月にかけて爽波の妻が入院、その間一か月以上一人暮らし生活を送っています。一月末には、虚子の小説「虹」の舞台となった福井県三国へ行き、伊藤柏翠に会っています。四月、須磨と嵯峨の大沢の池で雨中の桜を堪能しています(しかしこの時期の句集収録句には桜の句は無し)。また、この時期に刊行された「アサヒグラフ」増刊「俳句の時代」に登場していますが、代表句として挙げられた十句のうち三句が他人の作品だったという何とも杜撰な内容。これには爽波もがっかりしたそうです。

盆梅の蕾紙屑籠に捨つ  『一筆』(以下同)

花を開かぬままに枝から転げ落ちた盆梅の蕾。掲句における蕾を捨てる様子は、坦々として非情な印象を与えるが、盆梅の元に落ちたままの蕾は既にごみでしかなく、その存在は盆梅の美を損なう。盆梅の美は、そうした夾雑物を許さず、人の行動もそれに支配されている。

雪折の日を経て埃くさきかな

雪の降り続く夜に突如として起こる、木や竹の裂ける音とどさりと重たい雪の落ちる音には驚かされる。雪折の句の多くはこの驚きの瞬間を対象としているが、掲句はそれから日を経て雪も解け、折れたままの木の姿や周囲の様子を臨場感をもって描き出している。

焼藷を買うてこの座に侍るとは

「この座」とは一体どのような座であろうか。貴人や貴人のいる場所に対して、側近くに居させていただくという謙譲の意の込められた「侍る」から、かなり畏まった席が想像される。焼藷は冷えては旨くない。この席で食べ始めるつもりなら、かなりの大物だ。

壺焼が運ばれてなほ浮かぬ顔

その人は最初から浮かぬ顔をしていた。それでも、旨い物を食べれば気分も変わるだろう(自分ならそう)と見ていた。ところが、磯の匂い豊かな栄螺の壺焼にも相変わらずの表情。これは容易ならざる事態かも知れぬ、と気にかける側の心情が色濃く表れている。

鮨桶の中が真赤や揚雲雀

真赤と言うからにはやはり、寿司の収まっている状態よりも空の状態の鮨桶。出前の寿司を食べて、洗った鮨桶を表に出しておく、そんな情景ではなかろうか。巣から真っ直ぐに舞い上がり、空高く朗らかに囀る雲雀の下、洗ったばかりのつやつやとした鮨桶が眩しい。

でまりの雨やぐい飲遠ころげ

これはかなり酒が進んでからの景か、ぐい飲みが転がってあんな遠くまで。この遠さ、具体的に何cmというようなものではなく、酔眼に「遠いなぁ」と感じられるほどの、やや漠然とした距離だ。晩春、白い小手毬の花に降り続く雨に、思わぬ深酒となったか。

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