現前するリズム
藤井雪兎
例えば。
朝の始まり。目覚まし時計のアラームが五七五のリズムで鳴る。ニュースキャスターは五七五で朝のニュースを伝え、あなたは五七五で朝食を咀嚼する。そして五七五で支度をし、五七五で自宅を出て、五七五で会社へ向かい、五七五で仕事をし、五七五でちょっと一杯やり、五七五で帰宅し、五七五で鼾をかく。
もちろんこんなことは無く、五七五の部分は別のリズムである。我々が日常の中で五七五のリズムに出会うのは、全くの偶然か定型俳句を読んだり作ったりする時だけである。五七五は日常にはほとんど存在しないリズムなのである。
自由律俳句の創始者の一人である荻原井泉水は、層雲第一句集「自然の扉」の中で、「自然は現前している。直にそれを掴んだらいいじゃないか」と書いているが、自由律俳句は、俳句の概念化を否定し、現前性を追求するために生まれたのではないだろうか。実際この句集のタイトルの「自然の扉」という例えは、自然と概念を隔てている境界線という意味で用いられている。そして井泉水は、概念化した俳句という部屋から出るためにそれを開けよと主張した。
現前性を表現するには「目の前にあるもの」が要求される。よって日常にはほとんど存在しない五七五のリズムは排斥されることになる。そしてそれに取って代わるのは、日常の中にあるリズム、例えば山登りのリズムや、桜の散るリズム等である。
しかし、自由律俳句が誕生しても五七五のリズムが滅びることは無かった。何故ならそれは、我々日本人の中で一つの概念となっていたからであった。井泉水は季題を否定することによって自然を概念化する行為を否定したが、私は概念には概念の美しさが存在すると考える。また、五七五のリズム自体が一つの強固な概念であるが故に、そこには現前させるのが困難なものを盛り込むことができる。また逆に現前するものを盛り込むと新たな概念になる。自由律で描くと極めて凡庸になる風景でも、定型で描くとそれなりに様になるのはこのためである。
しかし五七五のリズムは万能ではない。何を盛り込んでも五七五という概念になるため、五七五には成り切れなかったもの、あるいはなろうともしなかったものを取りこぼしてしまうのだ。また、どんなに切迫した情景を描いても、五七五のリズムがそれを緩和し、戯画化してしまう(それはそれで効果的ではあるが)。
定型俳句と自由律俳句。それぞれの目的が違い、そしてそれぞれの得意分野があるため、この二つの形式は並列して存在しているのだ。もし万能な表現方法があったら、世の表現は全てそこに集約されるだろう。もちろんそういうことは有り得ない。
ところであなたは、今日という日常の中で、どんなリズムに出会っただろうか?
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2013-07-28
現前するリズム 藤井雪兎
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