2013-09-29

俳句の自然 子規への遡行22 橋本直

俳句の自然 子規への遡行22


橋本 直
初出『若竹』2012年11月号
 (一部改変がある)

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以下、前号承前の記事であるが、便宜上まず今回分にかかわる句を再掲載しておく(×は子規の抹消句)。

⑦×家持て門松立てゝけさの春  同
⑧×風吹て門松うたふけさの春  同
⑨かばかりのものとしらじをけさの春  同
⑩今朝の春有明月を見つけたり  同
⑪けさの春琵琶湖緑に不二白し  同26年          
⑫×城門に槍の林やけさの春  同
⑬×天守閣屹然としてけさの春  同
⑭唾壺に龍はかくれてけさの春  同
⑮×どこ見ても霞だらけにけさの春  同
⑯×世の中にすめばこそあれけさの春  同
⑰鶯の隣にすんで今朝の春  同27年
⑱君か代や四千萬人けさの春  同
⑲×白河の關むらさきにけさの春  同
⑳禪僧の寂然として今朝の春  同
㉑白し青し相生の筑波けさの春  同
㉒×なき親の繪姿笑ふ今朝の春  同
㉓×吾妹子のうしろ姿やけさの春  同
㉔×のどかさは新聞もなしけさの春  同

⑦は門松で下位分類は「松」に入る。『分類―』には「たが門も松あれば入るやけさの春」(宗春)がある。

⑧は『分類―』にはない「松」と「風」の組み合わせということになる。

⑨は「元日快晴」と前書きがあるが、句だけではちょっと意味がとれない。誰かに言われて空を見た驚き、ということだろうか。

⑩は「月」に分類されるが、立春の「有明月」を詠むというのは『分類―』にはなく、ただごと句のようでありながら、それなりに新しい試みであったと言えようか。

⑪は「山水(除肢体等)」。琵琶湖と富士山を同時に詠み込んでいるところは、発想はむしろ蕉風以前の意匠ではないかと思う。

⑫⑬とも往事の松山城の年賀の出仕の様子を想像して詠んだものだろう。「城」ということで「建築・時令」に分類されるだろうが、⑫は「槍」があるから『分類―』にない「建築」と「器物」との組み合わせになろう。

⑭は「今年巳年なれば」と前書があるが、眼前の風景を戯れに詠んだか、何か発想の典拠があるかは未詳である。分類としては「器物」になるだろう。

⑮も②と同様に「風・霞」に分類されよう。しかし抹消句にしてあるところを見ると、どうも正月の異称「霞初月(かすみそめづき)」を分解して発想した程度の安易な作だったのではないかという疑いが残る。

⑯は「文詞・動人事(除時候等)」に分類されようが、あたりまえの句に見える。

⑰は「根岸」と前書。本連載の第四回で触れたが、根岸は鶯の名所ということでの詠であり、その意味ではこの句は旧派的な文脈を出ていない。

⑱は、⑤、⑪同様に「日本」の新春を言祝ぐ、という意識のもとに作句されていると思われ、写実には遠い。

⑲は「山水(除肢体等)」に分類されよう。内容は、「むらさき」がわかりにくい。子規は作句前年白河を訪れてはいるが、夏のことであり、属目ではなく、なんらかを想像した句であると思われるが、具体的にはよくわからない。白河の関がカタクリの名所ということなので、あるいはそのことを詠んでいるのかもしれないが、季があわず、ただ単に山紫水明を言詠んだものか。

⑳は「神仏類・人倫(除肢体等)」に分類されよう。しかし「寂然」が常套的であり、新味は感じられない。

㉑は一応「山水(除肢体等)」に入るとみる。この句も何か典拠があるとは思われるのだが、未詳である。

㉒、㉓はありのままであろう。㉒は「神仏類・人倫(除肢体等)」に分類される。抹消句にしたのは、ハレに遺影がふさわしくないとみたからか。㉓は「文詞・動人事(除時候等)」とみる。これも抹消しているが、つまらないと見たか、「うしろ姿」が新年詠にふさわしくないとみたものか。

㉔は「文詞・動人事(除時候等)」か。「日本新聞発行を停止せられて」と前書があるので、諧謔的な句だということがわかる。

以上の各句の分析を通して受ける率直な印象として、明治二七年までの子規は、案外に表現の新しみにこだわっていないようにみえる。既存の句の収集と分類作業がなされているなら、それと比較さえすれば句の新しい趣向、新しい取り合わせを見出す事はそう難しいことではないだろう。子規の句に新しさを求める姿勢が見出せるか、少なくとも旧派と比較すれば新しいといえるような句があるのではないかと思ったが、その数は案外に多くない。

このころの子規が、自分の分類のもたらす新しさにそれほど重きを置いていなかった可能性はなくもない。しかし、子規は、まだ彼の代名詞である「写生」の革新俳人ではないけれども、旧派にない新しさを求めてはいたはずである。

前号で述べたように、子規は明治二七年で「今朝の春」を詠まなくなってしまった。もちろん季語によって好みや得手不得手があるだろうが、このころの子規の実力では、まだ季語とその文脈のもつ表現の型の拘束力のほうが強力で、思う程新しみを加えられなかった、ということなのかも知れない。

次回、さらに子規が多く詠んだ季語から分類の例をとり、その後の子規の取り組みを確認してみたい。『寒山落木』で抹消句を含めた子規の句を数えると、いわゆる「雪月花」を詠んだ句がいずれも三百句を超えて多数だが、他に「涼し」、「時鳥」、「時雨」が三百句を超えて多数なので、これらの季語から抽出して変化を分析してみたいと思っている。

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