気分を伝える
高勢祥子句集『昨日触れたる』の一句
西原天気
「気分」と「気持ち」は、違うのか、違わないのか。つねづね、俳句は、「気持ちを伝えるものではない、けれども、気分を伝えるものではある」と思っている。この場合、気分と気持ちをはっきり違うものとして区別していることになる。
では「心地(ここち)」は? これは気分に近い。もちろんこれは私の把握。
卵割る心地立夏の靴を履く 高勢祥子
靴を履くのは足であり、卵を割るのは手(あるいは指)である。そうなるとずいぶん突拍子もない、意表をついた相同(homology)ということになる。そう読んでもいいのだろうが、靴を履くのに、指で割って広げて履く。そのように読んだ。紐靴、それもスニーカーのようなカジュアルな靴が目に浮かぶ。
紐を指で少しゆるめて、靴の口(口って言うのか?)を広げ、足を差し入れる。それは卵を割る動作と似ていると思う。ただ、そのようにていねいに描写して、相同/比喩を確定させることには、俳句はしばしば向いていない。省略するしかない。そこに不確定が生まれるが、それは大きな瑕疵ではない。俳句って、そんなものだ。
描かれた動作がどうであれ、措辞が描く内容がどうであれ、「卵」や「立夏」や「靴」や、そしてそれらにまつわる動作や身体の質感は一定に存在し、モノや質感が呼び起こす「心地」はきっと確実に伝わる。
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相同、あるいは比喩が意表を備えているという点では、《火の粉かと思ふ小雪の降り始む》も同様。この作者の資質のひとつなのだろう。
気分(気持ちではなく)が伝わるという点では、《エイプリルフール続けてバス二台》がおもしろい。《日曜のパジャマの軽さ夏の草》《鶏頭の休んでみたら長い昼》《眠たさを大事に帰る冬暖か》などは、ふだん忙しくしている人がほっとリラックスする時間。
《膨らますどの風船も同じ味》《おでん屋に一度もならぬ黒電話》は、読んでいるこちらもリラックスできる。
全体に、口語的な句が気持ちよく読めた。半面、文語的な句はややこなれず、俳句的因習に不自由に寄り添う感じが残った。この作者が、自身、無理なく、気持よく作っているのはどちらなのだろう。そこはもちろんわからないが、「俳句らしく文語的に」という処理は、手堅いようでいて、作者によってはあんがい困難。たやすくつまらないところに嵌ってしまう危険性が高いと、私自身は思っている(つまり、「それって、俳句的な気分ではあるけれども、作者固有の気分ではないですよね」といった退屈)。
(念の為に言っておくと、俳句全般でどちらかというと文語的な句がやっぱり好きなのですよ、私は)
とまあ、いろいろ、以上のような事柄とは別に、
白長須鯨忽ち少女老ゆ 同
といった句が強く印象に残った。 こちらの〈読みの秩序〉(読み手が意識的・無意識的に構築する秩序)からするりと逃れていくような句が、じつは最も快楽的な句なのだろう。
2013-10-20
【句集を読む】気分を伝える 高勢祥子句集『昨日触れたる』の一句 西原天気
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