2013-10-27

考へる 川名将義句集『海嶺』の一句 西原天気

考へる
川名将義句集『海嶺』の一句

西原天気



「裏」に目をやる、「裏」を思うのは、俳人の習い性です。句を挙げればキリがありませんが……。

《薄氷の裏を舐めては金魚沈む 西東三鬼》《能面の裏はまつくら寒波来る 井上弘美》《千代紙の裏のしらじら冬永し 鈴木鷹夫》などは裏への眼差し、言い換えればある種「発見」の句。

《羽子板や裏絵さびしき夜の梅 永井荷風》《賑やかな骨牌(カルタ)の裏面(うら)のさみしい絵 富澤赤黄男》。裏は「さびしさ」。

《満月の裏はくらやみ魂祭 三橋敏雄》《涸れ川を鹿が横ぎる書架の裏 中島斌雄》は幻想的な裏側。

《大榾をかへせば裏は一面火 高野素十》《ボート裏返す最後の一滴まで 山口誓子》。とにかく裏返してみる。

いずれも「裏は?」という問いに「答え」を与えるような句です。答えとまで言わなくても、「その後の展開」。

ところが、答えのない「裏」もあります。

  ひとひらの雪の表裏を考へる  川名将義

雪のひとひらに表裏はあるのか。そりゃあ、モノであるかぎり、表と裏はありますわな。では、表と裏それぞれの様相は?

作者は「考へ」てはいますが、そこに答えがあるわけではありません。考えて、立ち尽くす。

句集『海嶺』には、《対岸は同じ花火の裏を見る》という句もあり、こちらには「対岸」という答え、というか趣向があります。

裏への視線、そこから見出される「俳句的回答」「俳句的解答」。こうした展開の多くは「機知」に属するもので、花火の句にも、上品かつ抒情的な機知があります。

俳句における機知は、読んでいて気持ちのいいものです。けれども、賞味期限は意外に短かったりする。

答えの出ない問いは、いつまでも楽しめます。明日になっても、何十年経っても、答えはわからないわけで、考えることが止まない。

《ひとひらの雪の表裏を考へる》は、機知の手前で、あるいは機知の向こう側で、答えのないまま呆然としている句。これは、一生ものの興趣だったりもするわけです。


集中より何句か。

目に入れて蝶よ花よと春を愛づ  川名将義

黄水仙ふつうの人が見て通る  同

夜は空に星のしだるるさくらかな  同

羊羹の夜長の色を切りにけり
  同

水といふ水がくるりと春になる  同


【追記 2013-10-28 0:05】

最初に言っておきますが、この追記は、いわゆる「類似の句」を問題視するために書くのではありません。事実を書き留めておくために書くものです。

文中で引用した《対岸は同じ花火の裏を見る》には、類似の句、山田露結《対岸は花火の裏を見てゐたる》(『俳コレ』201年12月、山田露結句集『ホームスウィートホーム』2012年12月)があります。

私は、上記2点の書籍を既読にもかかわらず、このことに気づかず、この記事を書き、掲載後に読者の指摘によって知りました。

私自身は、類似の句の出現は俳句にとって幸福なことではないが、完全に避けることはできない、「それも含めて俳句」という考え方です。

また、類似の句が出現してしまった場合、それをできるかぎりオープンにするのがよい、そのほうが風通しがいい、類似の句の存在に気づいた人がひとり気を揉んだりすると、風通しが悪くなる、という考え方です。だから、これを書いています。


取り急ぎ。




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