榮猿丸句集『点滅』のオフビート感
西原天気
「オフビート」とは、例えば4拍子なら2拍目と4拍目(裏拍)にアクセントを置くこと。オモテ(オン)とウラ(オフ)というのは、どっちがどっちだか微妙ですが、とりあえず、アタマをオモテとすれば、ウラ(オフ)に強調がくるのがオフビート。
洋楽ではオフビートはごく普通。むかし、そういう洋風ビートに慣れていない日本のお年寄りなどが、オモテ(1拍目と3拍目)で手拍子しちゃうものだから、どうにもこうにも、ということがよく起きました。手拍子=民謡というアタマの人がたくさんいたのですね。
今回は、そういうビートの話と榮猿丸『点滅』の話です。
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ところで、この「オフビート」という語は、音楽から離れて「型をはずした感じ」にも用いられます。ジム・ジャームッシュの映画には「オフビート感」があるよね、といったあんばい。まあ、それだけではないニュアンスも付随してくるのですが、基本的には「オンじゃない」「はずし」「ウラ」といったことです。
さて、そろそろ本題。このオフビート感にあふれた句集、それが『点滅』、というわけです。
こういうことを言うと、「いや、王道の俳句でしょう?」とか、また「型」という部分にこだわって「そもそも型ってなんだよ?」なんてややこしい言い出す人もいそうですから、『点滅』に並んだ句ってちょっと変わってますよね、くらいでもいい。「変わってる」という表現に違和感があるなら、個性的。ユニークな作風。まあ、能書きはなんでもいいのです。それらをここではオフビート感と呼ぶことにします。
『点滅』のオフビート感を説明するのに、まずは素材(句に登場するモノ)に着目するとわかりやすい。
Tシャツとかダウンジャケットとかシリアルとかピザフライドポテトとか(食べ物が多いのは半分は実際、半分は引用のたまたま)。カタカナ語の「今日的事物」が数多い。
扱い方もちょっと変わっている、草野球のバットがビール箱に突き刺ささっていたり、ライトバンの運転手が休憩したり、グレープフルーツジュースの氷もグレープフルーツジュースだったり。
こういうモノやコトが俳句に出てくるというだけでも、「変わってる」とはいえるでしょう。
しかし、待てよ、と。
「今日的事物」というだけで、ユニークと言ってしまっていいのか?
カタカナ語さえあれば、オフビートなのか?
というと、まったくそんなことはない。
『点滅』がカッコいい(言っちゃいましたね)オフビート感に満ちているのは、「そこじゃない」ところにあります。「カタカナ語の多い句集だなあ」で終わる句集ではないってことですね。
どこがそうじゃないのか。いくつか挙げていこうと思います。
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七五調は、きほん土俗の泥臭さをまとっています。だから、ある時期のインテリは七五調を嫌ったのだと思います(どうにも垢抜けない、因習的な、しかしこの出自からは逃れられない)。
俳句の五七五のビートも、そのままでは「民謡」に近い。
実際、バックに大漁節やチャンチキオケサや安来節が鳴っているような句群を、よく目にします。
だから五七五にそのまま「今日的オフビート的事物」を詠み込んでも、さっきお話した「お年寄りの手拍子」のようなことになってしまうのです。
民謡ノリの句に、今日的事物、カタカナ語を配した句は、めずらしくない。多い。
本人は「新しい(ナウい)」「チャレンジング」と思っていたとしても、それはもう、ビートが「民謡」なのです(良い悪いの話ではなくて。また新しければ良いという話でもなくて)。いわゆる「新しい酒を古い革袋に入れる」というやつです。
『点滅』の句群は、そうした民謡ノリとは違うノリが確実にあります。
このオフビート感がどこから来ているのか? 迂遠な書き方になっていますが、ひとつには、韻律だろうと思います。
韻律をこしらえることついて、この作者は、かなり意識的です。
ビニル傘ビニル失せたり春の浜 榮猿丸(以下同)
何かの座談会かどなかたかの記事で「なぜビニール傘ではないのか」といった指摘があったと記憶しています。そのとおり、この句は、例えば「ビニール傘ビニール失せて春の浜」(675)ともできたはずです(良い悪いの話ではないです)。
あるいは、助詞「の」の省略は、これでいいのかという指摘もあります。「ビニール傘のビニール失せて春の浜」(775)なら「の」が入ります。
俳句を作る人のなかには、上をどうしても5音に収めたいという人もいます(その癖があると助詞が省略されやすい)。けれども、この作者は、ちがいます。『点滅』には字余りを自在にこなした句も数多い。
ビール乾杯届かず卓の端と端 (775)
M列六番冬着の膝を越えて座る (876)
朝起きてTシャツ着るやTシャツ脱ぎ (576)
このように「純然五七五」に収まらない音数組み合わせの句が、印象的に登場します。だから、「ビニル傘」という「パンにバタ」(久保田万太郎)的な縮め方は、「どうしても5音に」という纏足的な処理でないと判断すべきなのです。作者は《わざわざ》《意識的に》「ビニル」と記している。
ビニールはビニルと表記することに決めている(音的に間延びするから等の理由?)のかといえば、そうでもなくて、
ビニールプールに冷やす西瓜や子の座る (875)
…という句もある。音引き「ー」の有無は句ごとに検討されているらしい。
つまり、韻律(音数)という基本的なところで、この作者は、かなり念入りに《作り込む》。
助詞の「の」についても、こんな例があります。
畳の目無数寝冷のわがほとり (575)
この句、すっとふつうに読めますが、例えば「畳目の」という一般的な言い方を採用すれば、さらに流れがよくなります(何度も言いますが、良い悪いではなく)。ところが、そうはしない。「畳の目/無数/寝冷のわかほとり」と、ぶつ切りっぽい韻律を、この作者は《選んだ》。
こうした手技・手間に、作者の意図、575の因習的なノリにそのまま乗っかるという、ある意味ラクな俳句の作り方を《拒絶》する、あるいは《再検討》するといった作者の意図を感じませんか? 私は強く感じるのです。
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もっとも、音数の話は、『点滅』におけるオフビート感を探る上で、ひとつのアプローチに過ぎません。
今日的事物についても、伝統的事物についても、《執拗に》《リアリズム的なタッチ》を崩さずに詠んでいるのも、『点滅』の特徴のひとつです。
集中、一句として句意の曖昧なものはありません。句意明快、そこにある絵も鮮明です。
この徹底ぶりはかなりのもので、いわゆる「詩的な」処理でマボロシめいた景を連想させることもなく、また詩の伝統たる象徴作用を用いることもない。意地でも、そうしない。
(このあたりのストイックさは、『点滅』の際立った美点であり、カッコよさの理由かもしれません)
あくまでリアルな書きぶりによって、結果、(作者が別のところで用いた語を借りれば)「アクチュアル」な感触を生み出しています。
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『点滅』に流れる空気は、おおむね乾いています。抒情についても《操作的》であるのがその理由かもしれません。
ちょっと湿っているのは、「恋愛」ネタの句でしょうか。これが数として、集中、少なくはない。
全体に、ジャズとは違うがロックな『点滅』のなかで、恋愛句群はフォーク・ロックな湿度。まあ、このへんはマーケティング的な、という語がイヤなら、読者ニーズに対応、といったな配慮も働いているのでしょう。
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音楽に喩えたついでに、音楽ネタの句も効果的にいくつか配されていることを指摘しておきます。
ローリング・ストーンズなる生身魂 (575)
一見言葉遊び的(悪い意味ではありません。為念)に見えても、リアルな把握です。ミック・ジャガーのもうすぐ71歳という年齢よりも、メンバーたちの外観。例えば、映画パイレーツ・オヴ・カリビアンのキース・リチャーズの容姿。
あるいは、
弾初のギターアンプやぶうんと鳴る (576)
そして、音楽ネタで私がいちばん好きな句(この句集でいちばん好きな句かもしれない)を挙げて、この記事を終わることにします。
冬至湯に頭まで浸かりぬくよくよするな (577)
「くよくよするな」はご承知のとおり「Don't Think Twice It's Alright」(ボブ・ディラン、1962年)の邦題。
この句は、これまでここに私が書いていきたこと、ぜんぶ、すっ飛ばして、無関係に、あるいは「俳句」という枠組みも無関係に、泣けるのですよ。
2014-02-23
榮猿丸句集『点滅』のオフビート感 西原天気
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2 comments:
愚見ですが、「畳の目無数寝冷のわがほとり」を「畳目の無数寝冷のわがほとり」にしたらむしろ流れが悪くなると思います。
後者にしてしまうと、「畳目の無数」「寝冷のわがほとり」と構造的に対句のように見える状態になってしまいますが、二つの「の」の用法が違いますので、語感に繊細な読者なら違和感を覚えるはずです。
原句の通り「畳の目無数」「寝冷のわがほとり」なら、「の」の位置が対応しないので、二つの「の」の用法が違っていても違和感は生じません。
そして、これまた、個人的な感想ですが、「畳の目無数寝冷のわがほとり」の形で初五の最後に「の」が入ると、比較的長い間が生じ、実際に読む際は「畳目の/無数/寝冷の/わがほとり」となり、ブツ切れのような気分におそわれます(実際は違いますが)。「畳の目無数/寝冷のわがほとり」ですと、句跨りの効果が強く(「畳の」4音の後で間を入れる人はいないでしょう)、「目」の後の間も比較的短く済み、「畳の目無数/寝冷の/わがほとり」と実質845のリズムになり、オフビートにしてもノリが良いです。
「M列六番冬着の膝を越えて座る」は技巧的な句で、「膝を越えて」という句跨りが内容に合致していると思いました。
「膝」が現れるのが句の膝あたり、「を越えて」が下五に越えて(跨って)ゆき、「座る」で一句が座る状態になります。
「M列六番」という出だしも、アルファベットと字余りの併用に意外性があって面白い句だと思いました。意図的な字余り説、西原さんと同意見です。
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