【真説温泉あんま芸者】
川柳と俳句のあいだ
「ねじまき放談『川柳と俳句』」を読みつつ
西原天気
川柳と俳句、どう違うか。それは違います。けれども、それはいろいろと肌で感じる違いであって(私は解説者ではなくプレイヤーなので)、「こう違う」と簡単に言えるものでもない。さらに、考えてみれば、俳句のなかにも大きな違いがある。俳句Aと俳句Bのあいだに横たわる大きな差異。川柳と俳句の差異よりも大きな差異かもしれません。
どう違うか、これはかなりややこしくて、うまく整理なんかできない。だから、このあいだなんか、柳人もいらした酒席で、「じゃまくさいから、もう合併したらどうですかね」などと無茶苦茶なことを言い出したりしましたよ(「じゃまくさい」とはもっぱら差異についてあれこれ考えること)。
ちなみに最近、「キミタチ、結婚すれば?」と独身の男女にならともかく、既婚に向かって、さらには男性同士に向かって放言するのは自分でもほんとうに無茶苦茶だと思います(大いに反省)。その際も「ああ、もう、じゃまくさいから、いっそのこと」というアタマがあります(再び大反省)。
要らない話をしている場合でないです。『川柳ねじまき #1』(2014年7月20日)掲載の「ねじまき放談『川柳と俳句』」を読んでいきます。
放談の話し手は、なかはられいこ、瀧村小奈生(柳人)、二村鉄子(俳人)、荻原裕幸(歌人)の4氏。
まず、「川柳っぽいと言われる俳句」「俳句っぽいと言われる川柳」の話題から。「川柳作家の中にも俳人から褒められると、「俳句みたい」って言われようが、ちょっとうれしいって思う人がいるから」(なかはられいこ)。
俳句で言う「川柳っぽい」は、褒め言葉ではありません。この点では川柳と俳句の事情は非対称ですね。句会での「これは川柳ですね」いうコメントは、「おもしろい、くすっとさせる、けれどもこれは、俳句の諧謔ではない、俳句ではない」といった意味。口調の柔らかな「否定」です。
「俳句」として投句された句が「川柳っぽい」か否か。これは句会の現場ではそう難しい判断ではないのですが、では、川柳とは? 俳句とは? と総論になったとたんに事が難しくなる。
「(川柳と俳句の)違いを、川柳作家も俳人も他人が納得できるように説明できた例がないと思うんです。」(荻原裕幸)
そうそう。で、思い出したのですが、句会で「この句は川柳ですね」と評する場合、いわゆる現代川柳(『川柳ねじまき』に収録の川柳もこれに入る)ではありません。「役人の子はにぎにぎをよく覚え」の川柳、誹風柳多留柳の川柳です。
「(…)俳句には一般的イメージがあるってだけじゃなくて、作家側が表現しようとすることが実現しやすいスタイルだと思うんです。川柳作家の場合、川柳とは何かというようなことに関して、一様に小難しいことをしゃべるか、一般的にしづらいことしか言わないような状態があるように感じます」(荻原)
ここで言われている川柳は当然ながら現代川柳。
川柳の場合、川柳というジャンルのありようを問うていくことが川柳、みたいな感じがあるように思います。それで話がややこしくなる〔*1〕。俳句にも、ないことはないのですが、「自明の俳句像」みたいなものへの信仰も強い。良し悪しの話ではなくて。
川柳のそういう部分は、次の指摘と関係があるかもしれません。
もし現代思想のひとつのテーマが、〈なに〉をいうのか、ではなく、《〈なに〉をいうのか》をいうのは〈だれ〉なのか、にあるとするならば、そうした発話よりもむしろ発話の主体化のプロセスを問うのであれば、その主体化のプロセスを描くやりかたがすこし川柳と似ているかなともおもうからである。●
柳本々々「燃えるあとがき」
http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-256.html
「ねじまき放談」は川柳と俳句の環境の違いにも話が及びます。
俳句には「BS俳句」「NHK俳句」、角川「俳句」があるが、「BS川柳」「NHK川柳」、角川「川柳」はないという、メディアにまつわる指摘(なかはら)。
なるほど。「NHK川柳」なんて、あってよさそうなのに、ないらしい。俳句のアンソロジーは多数出版されるのに(これ、安易に多すぎ)、川柳のアンソロジーは見ない。大家の川柳作家の作品出版もきわめて少ないそうです。
「サラリーマン川柳があるよ……なんて言うと余計怒られるかな」(二村鉄子)
そうそう。俳句に「おーいお茶」があるように、川柳には「サラリーマン川柳」がある。マーケット的には〔川柳>俳句〕なのだと思います。アマゾンの句集のランキングでは、サラリーマンやらシルバーといった接頭語の付いた川柳(通俗川柳)の句集群が、俳句の句集を圧倒しています。
上位を占める割合から言えば、
川柳>芭蕉>「カキフライが無いなら」あるいは山頭火関連>>>俳句
俳句はセールスの点で、通俗川柳にはるかに及ばず、芭蕉、自由律俳句に遠く及ばないのではないでしょうか。
ただ、現代川柳をこのランキングの中に置くと、さらに悲惨な位置なのかもしれません(違っていたら、川柳関係者の方、ごめんなさい)。
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川柳を書く、俳句を書く。この根源的な部分への言及も興味深い。
「(俳句は)ルールが多い分、思わぬものができるんですよ。あと、主題がない感じ。そういう薄味なところが俳句全体に、川柳に比べてあるように思います」(二村)
これは、現在の俳句の世界で主流をなす俳句観だと思います。「テーマの喪失」についてはたびたび語られますが、その際の例示に社会派俳句なんてものが持ち出されるせいもあって、「テーマなんかなくていいんじゃないの」ということになってしまう。ネガティブに、ではなく、むしろ積極的「無テーマ主義」。
テーマを広く捉えているうちはいいのですが、狭いと、メッセージ性などという俳句と親和性が低かろう要素が浮上したりする。それもあって、俳人は、テーマへの接近に慎重なのです。
川柳は俳句に比べて「テーマ」性が色濃いという予見が、俳人にあるようです。ところが、「テーマなんて考えて書いていないですよ」「日常生活してて普通に目についたこととか思ったこととかを書いているだけ」(なかはら)ということなので、そうでもない。作家によるのでしょう。
「(…)自分がいて、身のまわりのものを見て(…)ほんの些細なことから、向こう側の世界に突き抜けるみたいな、向こう側の世界につながるっていう感じでつくれたらいいなと思ってアプローチするんだけど(…)」(なかはら)
このあたりは、なかはられいこさんの作句スタンスをうかがい知るという点で興味深い箇所なのですが、これ、私が俳句をつくるときも同じです。結果として出てくるものは当然違いますが、些細なフックから別の場所に運ぶということ、はなからどこかにぶっ飛んじゃうんじゃなく、〔そこ〕にあるモノ/コトから〔どこか〕へ、ということなら、同じです。なので、川柳と俳句、どこが違うのか、ますますわからなくなっていきます。
というわけで、川柳と俳句は、まあ、いろいろ違いますわな、という話題であって、これはしかし、ときどき真剣に考えてみると、いいのですよ。
先に引いた柳本さんがまたまた、いいことをおっしゃっているのです。
なぜ、ジャンルが問い直されればされるほど、ジャンルそのものの価値がきらきらしていくんだろう、と。それは、ざっくり言うと、作品群の更新には枠組みの再考(と更新)が必要ということだと思います。自明の枠組みに依拠したままでは、ジャンルに対して新鮮に向き合えない。「俳句保存会」「川柳保存会」をやっているわけではないので。
柳本々々:「脱衣場を抜けるアリス なかはられいこ句集『脱衣場のアリス』の二句」『週刊俳句』第380号
http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-190.html
柳本さんの記事には「但し書き」も付いていて、そちらもとても重要です。
ジャンルはつねに〈外部〉にさらされつづけつつも、問い直されていくものではあると思うんですが、そのときに気をつけなければいけないとおもうのは、短歌・俳句・川柳のジャンルの差異が考察されるときに、短歌=短歌、俳句=俳句といったふうにジャンル内にある差異が同質化されてしまうといったことではないかとおもうんですね。差異を検分するうちに転倒したかたちでジャンルが前提化されてしまう。川柳とは? 俳句とは? の述部を探すうちに、差異や逸脱が切り捨てられる。そうして貧しくなる。整地され植林された森よりも、ヘンな木や虫(害虫もネ)がいる森のほうが豊かでしょう。
(柳本々々:同)
俳句のなかにもいろいろ俳句があって、なにを俳句とするかの俳句観は、俳人によって大きく違います。お互いに遠い。これ実感。俳句観が違うにもかかわらず、同じ評価軸を共有するかのような顔で、俳句に優劣をつけたりするのを見飽きました。
だからといって、個別が個別のまま虚無的に拡散していっていいわけではないです。ただ、俳句とは? 川柳とは? といった問いを立て、堅苦しく「究極の述部」を探求するばかりがマジメな努力でなくて、ですね、俳句のいちばんオイシイとこ、川柳のいちばんオイシイとこを探していくという、ちょっとカジュアルな態度に変えてみるもいいと思うのです。すると、あんがい、コクの部分は俳句と川柳で同じだったりする。違っていたらいたらで愉しい。
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ここで、俳句の人たちにあんがい知られていない、川柳と俳句の大きな違いについて、紹介しておきます。
川柳の句会は、きほん、選者が選ぶ。選者は1名か、複数の場合は兼題が複数で、兼題ごとに選者がいる。選句することを「抜く」と呼び、参加者は「抜かれる」という。
(まちがっていたら訂正して叱ってくださいね。川柳の人)
つまり互選や合評がない。「ねじまき句会」は互選・合評の句会ということで川柳では稀有かつ画期的の模様。
互選・合評が句会スタイルとして当たり前の俳句(主宰の選のみの結社句会もあるが、全体からすれば少数)とは、そこが大きく違います。
想像するに川柳の句会では、作り、抜かれる(選ばれる)という作業と成果に重点が置かれるのでしょう。俳句の場合、川柳に比して「選ばれる」ことを絶対視しない。自分もふだんから選んでいるので、読むこと、選ぶことの「至らなさ」をよく知っているから(そうじゃない人はよほどの自信家)ということもあって、互選の点数にこだわる人はそれほど多くない(「高点句に良い句がない」という認識は広く浸透しているし、ある面真実でもある)。
「ひとり選者」という(川柳の)スタイルは、選者ひとりに句の読みや評価を託すということですよね。そこで私などは思うのですが、選者って、そんなに信用できるものですか?
(ちなみに、私は、何かの間違いなのか、川柳の選者を引き受けることになりました。たしかこの9月。他ジャンルの人間を選者に立てる変則スタイル。その際、間違っても私の選などを本気にしないでくださいね。もちろん本気で精いっぱい詠ませていただきますが、自分の句の責任は自分にある。句を作って、最後にケツを吹くのは自分だと思いますよ)
さて、「ねじまき放談」では、互選句会→読むこと→批評、という流れが強く意識されていることが、そこはかと伝わります。そのあたりが川柳の「外部」から川柳へと参入した荻原氏の意図のひとつでもあるでしょう。
で、やはり思ってしまうのは「ひとり選者だと、他人の句を読まないでしょう?」ということ。読むとしても、抜かれる・抜かれないの基準の範囲内では、その読み方はかなり偏ったものになりそうです。例えば、自分の作句のために読む。でもね、これは俳句でも同じようなことがいえるのです。俳句も、「他人の俳句なんて読んじゃあいない」という悲観・諦観からスタートした(もっぱらネット上の)媒体をいくつか知っています。
「(…)川柳に向かって何かしゃべるときと、俳句や短歌に向かってしゃべるときとでは、明らかに返ってくるこだまの反応が違いますからね」(荻原)
俳句で「批評の不在」が嘆かれて久しい。川柳は、それ以上の深刻さなのかもしれません。
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冒頭の「結婚してしまえば?」の話題に戻りましょう。結婚と言わず同棲。
川柳の人と俳句の人が、例えば同じ雑誌をやると、おもしろいかもしれませんよ。俳句とも川柳とも標榜せず、俳人+柳人とも公言せず。
これ、思いついたのはずいぶん前なのですが、『週刊俳句』の「柳俳合同誌上句会」を見ていて、意を強くしたのです。おもしろいです(選評もお楽しみください)。
共通点や相違点を超えて(というか、そんなことじゃまくさいから、四の五の言わずに)定型が30個並ぶ。それを見ていると、違うものをめざして、違うアプローチをする、異質なテクストが同じ場所に並ぶほうが、むしろおもしろいんじゃないのか、と思ってしまったものですから。
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最後は、ものすごく脳天気で楽観的なシメで終わることにします。
川柳と俳句。似ていて(五七五)、違うものがふたつあってよかったですね。ひとつじゃあ、つまらなかったですよ。
〔*1〕「川柳の人は難しいことを言う」というイメージは俳人のあいだにやはりあるようです。別のところで、次のような戯言を書きました。
川柳や短歌の人と少しだけど交流を持った私が言うのですが、ぽけーっと口あけて笑ってて大丈夫なのは俳句だけですよー。だから、あなたも私も、俳句を捨てちゃダメです。
川柳や短歌で、バカだと、どうなると思います? わかりますか、バカだとね、バカにされるんです。(イメージです。あくまで私のイメージです)
俳句にも、小賢しいこと、小難しいことを言う派があるみたいですが、おおむね、ぼんやりしてますから、大丈夫、気ままに楽しくやれるはずです。
これに、俳人から多くの「賛同」のような反応(確定はできません。イイネ!やファボによる憶測)がありました。俳人は自虐ネタが好きですし、矜持の裏返しという部分もあるでしょうが、「難解嫌悪症」が一定数の俳人にあることは確実です。
ちなみに私は「なんだか難しいけれど、なにか面白そうなことを言おうとしているみたいだから、無いアタマを酷使してでも聞こうかな、読もうかな」という努力派です。難しげな書き方はけっして好きではありませんが、難しそうだからダメ、という「のっけから難解拒否」派ではありません。
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『川柳ねじまき #1』は定価500円。
ウェブサイトはこちら≫http://nezimakiku.exblog.jp/22222520/
問い合わせ先もそちらに記載があります。
1 comments:
ひとり選者はむしろそこにこそ批評性が試されているのでは。川柳はそれ自体に批評性がありますし、それを選ぶという行為がそのまま批評になってしまうように思います。一方互選していれば立場はぼかされて批評性は薄まっていくでしょう。だから川柳はこれでいいのかも。
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