2014-08-17

【真説温泉あんま芸者】倫理と俳句 「人としてどうかと思う」といった反応にまつわること 西原天気

【真説温泉あんま芸者】
倫理と俳句
「人としてどうかと思う」といった反応にまつわること

西原天気



映画を観て評価・感想を書き込むサイトがあります。映画評論家ではなく一般の人による評価・感想です。以前、『キック・アス』(2010年/マシュー・ヴォーン監督)という映画に最低点・評点1が付いていて、感想を読むと、10歳かそこらの少女が人を殺しまくるのは断じて許しがたいといった内容でした。

映画をご覧になっていない方のために少し説明すると、『キック・アス』はスーパーヒーローもので冒険活劇。まちがっても「未成年者による正義の殺人の是非を問う」社会派映画でありません。

映画評価サイトのこの感想を読んで、たいそうびっくりすると同時に、この評点1の道徳家のような人まで相手にしなければならないとは、映画というものは大変だなあ、と思ったことでした。

評点1を付けた道徳家は、「少女」という部分が許しがたかったのかもしれませんが、クロエ・グレース・モレッツ演じる「ヒット・ガール」がこの映画の魅力の大きな部分を占めていますし(あどけない容姿なのに、強い強い)、「親はどういう教育をしているのだ?」と仮に怒り心頭であっても、父親によってファイターの教育が施されたことが、この映画の柱のひとつです。

「相手が悪人とはいえ殺戮のシーンを観て何も思わないのか」と仮に訊かれても、ラスト近く、悪者の居城に乗り込んでのバトルは「胸がすく」「映画史に残る名シーンと思う」としか答えられません。ただ、そう答える自分も、こうした殺人(悪者の征伐)が正当であると思っているわけではありません(というか「フィクションでしょうが!」のひとことで片付くこともであります)。

つまり私たちはたいてい、倫理と表現は別のものとして考えます。

もうひとつ例を挙げます。がらりと変わって卑近な話題で恐縮ですが、あるとき句会で、《心より見かけがだいじ扇風機》という句を投句しました(扇風機の前で切れていると、とりあえずこの場では判断してください)。選評になって、ある人が、「あら、わたし、読み違えていた」とおっしゃる。「見かけより心がだいじ」だと思ったから採った、「心より見かけがだいじ」なら採らないとのこと。

心と見かけ、どちらがだいじだと思うかのアンケートをやっているわけではなく、句会は、俳句としてどうかがテーマです(この句の良し悪しは、お願いですからひとまず横に置いておいてください)。

しかしながら、ときとして「その考え方はどうなのか」「そう考えるのは人としてどうなのか」といった(いわば道徳的な)判断基準が持ち込まれることがあります。

先の句は、作者が「心より見かけがだいじ」と考えているとは限りませんが(俳句は意見表明ではないので)、もし考えているとしても、読み手は賛否だけで反応するものでもない。そこに見て取れる倫理観と表現(俳句)は、別の路線で検討されるはずです(悪徳だから面白い、素晴らしいというケースもありますね)。

例示が適切だったかどうか少々心許ないのですが、言いたいことはわかっていただけたと思います。

「人としてどうか」(道徳・倫理)と「句としてどうか」(表現)は別物である、という前提で作品に接している(少なくとも私は)。その程度のシンプルなことです。

ところが、このシンプルで明白なはずのことが、自分の中で揺らぐ事態が起こったりもします。



例えば、次の句です。

  燎原の野火かとみれば気仙沼  長谷川櫂

『震災句集』中のこの句をどう読めばいいのか。そうとうに悩みます。

気仙沼が2011年3月11日以降、大規模火災でも大きな被害を受けたことを、私たちは報道を通して、また、なまなましい映像によって知っています。

燎原の火とは「激しい勢いで広がっていき、防ぎようがないもののたとえ」。炎は気仙沼の市街地であって野原ではありません。

掲句の意味をそのままなぞると、「見たところあれは燎原の野火かと思ったが、違っていた、気仙沼(の火災)だった」となります。そこに感じるのは、災害を見る「人間」の目とは少し違った「俳人」の目です。

俳人らしく恬淡と、また飄々とした読みぶり。一方で、(砕けて悪く言えば)高みの見物。

ただ、ここで詠まれているのは、あの震災のことなのです。

この句において、表現(句として恬淡・飄々)と道徳・倫理を切り離して読めるかというと、自分にはできそうにありません。「うまく俳句にするのはいいが、それって、人としてどうなのか」とやはり思ってしまいます。

「心と見た目」と「気仙沼の野火」とは話が違うかもしれませんが(もちろん深刻度は大きく違います)、作者の道徳的なあり方と表現というテーマで括れば同じ領域の話です。ところが、読み手である私は、一方で「句としてどうか」を問題にし、他方で「人としてどうか」が気にかかる。これはややこしい問題です。

その違いは何に起因するのか。わかりません。作品/作者ではなく、読み手に要因があるのかもしれません。つまり、読み手が基準を使い分けているという側面もあるでしょう。

結論としては、「これは思ったよりも難しい問題ですよ」ということになります。それも無責任な話ですが、このテーマが自分の中で始まったと解することにします。

このさき自分の理解が進むかもしれないし、どなたかから啓示のような解答が得られるかもしれない。だから、こういう「ちょっと引っかかっていること」「難しい問題だぞ」と思っていることは書いておいたほうがいいのです(と自分を納得させておきます)。

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