俳句の自然 子規への遡行35
橋本 直
初出『若竹』2013年12月号 (一部改変がある)
ここで一旦、子規の俳句の分類の行為そのものについて考えてみる。そもそも、子規は何のために俳句の分類をしようと思ったのであったか。以前(第18回)にも書いたが、柴田奈美著『正岡子規と俳句分類』によれば、まず子規がもともと記録と分類が好きであったこと。そして、『当世書生気質』を読んで比較することの面白さと効用に気づいたこと。師事した大原其戎が亡くなった後は独力で俳句を学ぶことを決意して古句を読んでいたこと。さらに漱石との間で闘わせた「『アイデア』と『レトリック』」論争によって、子規自身がレトリック重視の主張をする立場をとったことなどが主な理由とされる。柴田氏は、中でも漱石との論争が本格的な俳句分類着手の動機と見ておられる。
子規個人に焦点化すれば、はじめたきっかけはそういうことかもしれないが、そこからすこしメタレベルに立てば、まず「和魂洋才」という言葉に代表されるように、西洋知の導入によって日本の文明文化を西洋並に引き揚げなければならないという時代の要請があり、西洋流の文学という概念もその流れの中でもたらされたものであり、さらにそこからただ外国の所産を無闇に受け入れるのではなく、西洋知をもって日本の古いものを換骨奪胎することを目指した動きの中に、子規の俳句革新と呼ばれるものも含まれるであろう。
それを簡単に言えば、子規は俳句を「文学」にしようとしたのである。その方法が、既存の俳諧宗匠達を旧時代の型にはまった「月並」俳句しか作れない者であると論難することであり、「写生」という新しい「方法」(ここでは仮にそういう)によって、古い詠みと読みの型を抜け出すことであった。
さて、そうであったとして、「俳句分類」のややいびつながらも系統樹的に枝分かれしてゆく「分類」という方法そのものは、西洋流の自然科学からもたらされているといって差し支えないと思う。そしてその分類の総量と個々の句の対比によって、計量的に文学性(あるいは美)の価値の有無を見出そうという試みであったとも言えるだろう。
そこで私が問うてみたいのは、文字にして何か言い残したことではなく、その時の子規の考えの流れ、あるいは感覚していたことそのものである。子規が俳諧の発句の総体を西洋からもたらされた科学的方法としての分類を通して旧時代の遺物として構造化し、その構造の網にかかるもの達の駆逐・排除を前提とした「ものさし」のようなもの、彼にとってのいわば「近代俳句の秩序」の完成を目的としていたのか、あるいはその分類によって構造化した俳諧の世界を一旦自明のものとして世間に周知し、その構造からはみ出る諸相を「俳句の新しさ」として見出すことを目指していたのかでは、「俳句分類」のもつ意味はまるで違ってくるだろう。前者であれば目的以外の、言葉と人の間に生成するはずのさまざまなノイズがひろわれることはない。一方、後者であればそのノイズそのものを拾うことが重要になるであろう。このことは、行為の継続の中で変容しうることでもあるうえに、子規は分類を自己の活動の中でどこまで活かしえたか判然としないままに早世してしまったので明確な答えが出しにくい。
ところで、子規の分類では、例えば梅に鶯というような、例句がいくらでも拾える型どおりの取り合わせに対して、さらなる下位分類を様々に行っているのだが、子規のグルーピングの意図に対し、当の実作者の立場に立てば、その共有しているゲームのルールの下で他者との差異を模索した営為の結果の作であるはずだろう。が、いったんそのルールの共有から離れてしまえばみな同じに見えたり、理解が難しかったり、まるでつまらないものにみえることになる。
しかし、虚心坦懐にみなおしてみれば、この俳諧の世界に遊んだ人々は何故に是程の類型を反復し得たのか、という疑問も湧いてくる。紙幅の都合上詳細は略すが、すでに古くは鴨長明の『無名抄』において、能因と頼政の歌の類似についての逸話が語られており、蕉門でもそれを『三冊子』で話題にしている。『去来抄』においては同じ趣向や方法の句は避けるべきものという話題が複数でてきている。つまり類型を善とする発想は前近代においても善ではない。しかし、芭蕉を神聖視していたにもかかわらず「月並」な句を量産し続けた、いわば類型句の宝庫が明治の俳諧に存在し、かつ雑誌「太陽」での人気投票が示したように、それが同時代において子規ら新派よりも隆盛を保っていたと見えていることは、何を示すのであろう。たとえ近世から続く娯楽としての俳諧がなお機能し続けていたのだとしても、子規の俳句革新を軸に語る俳句史は何かを見落としてはこなかっただろうか。
例えば、歌舞伎は数百年同じ演目を何度も反復してきた。そして次にどのようなしぐさが行われ、どのような台詞が話されるのかわかっているのに、歌舞伎の愛好者はそれに飽きることはない。むしろ同じだからこそ逆に、毎度そこにうまれるそれ以前とも以後とも異なる一期一会の一回性の面白味を見出してきたはずだ。類型的俳諧を遊んだ人々に、そのような反復を楽しむ心性はなかったであろうか。さらに言えば、例えば娘義太夫を好んでいたという若い子規の感性に、そのような面白味を理解する回路がまったく開いていなかったとも思われないのだ。
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