2014-09-14

【週俳8月の俳句を読む】〈書かれていないもの〉は〈見えていないもの〉で、その〈見えていないもの〉が〈書かれていること〉とそれを〈書いたこと〉をことごとく意味づけていく様式について 田島健一

【週俳8月の俳句を読む】
〈書かれていないもの〉は〈見えていないもの〉で、その〈見えていないもの〉が〈書かれていること〉とそれを〈書いたこと〉をことごとく意味づけていく様式について

田島健一




アラン・バディウは〈悪〉の真の形象として、次の3つの形式に結論付ける。

①シミュラークル。あるいはテロル。
②忠実さに悖る行動を採ること。あるいは裏切り。
③名づけ得ぬものへの名称の強制。あるいは災厄。(*1)

俳句は言うまでもなく〈言葉〉だから、たやすくこれら〈悪〉の形象に寄り易い。俳句における〈私性〉の問題は、つまりこの〈悪〉への備えの問題であり、五七五という短い形式の中にも倫理的境界があり、俳句の作り手はつねにその境界線における態度表明を迫られているといってよい。

「わかる/わからない」俳句の分岐点は、テクニカルな問題よりもむしろこの境界線の問題であり、私たちには常に見えない部分に囲まれており、それを俯瞰する視点が存在しないという〈不可知〉の問題に他ならない。

さらに言えば〈不可知〉は〈私〉を形成する重要な構成要素であり、ざわめく俳句のために私たちは自分自身の〈不可知〉について諦めてはならない。

目を合わせない空気羽蟻が増えてゆく 宮崎斗士

「目を合わせない空気」と「羽蟻が殖えてゆく」との間に、一見投げやりな、説明のつかない〈空間〉があり、俳句で通常それは「切れ」と呼ばれている。

この〈空間〉が生れるのは、主体の視点がここで書かれたことの内部に存在し、外部から俯瞰的にすべてを見とおせる場所にはいないことを示している。

テクニカルな問題ではあるが、ここでは視点が内部にあるから〈空間〉が生れるのではなく、〈空間〉があることで視点が内部に移ることに注意したい。

主体は、目の前で湧き出すように増える羽蟻の黒さと、自身を包み込んでいる「空気」との関係をうまくマッピングすることができない。主体の視線が捉えそこなった〈空間〉は読者の側からは別のものとして見えており、この句の場合は「空気」という一語がそこで瞬間的に多様化する。

「目を合わせない」は主体の位置から選び出された「空気」を意味づける一種の「思い込み」であり、それがあるために「羽蟻が増えてゆく」ことがそこで唯一意味のあることのような趣きを感じさせる。


宙を抱けばこんなにわかる滝のまへ 佐藤文香

出来事は、まず起こる。そしてすべての意味づけは後からである。

「宙を抱けば」という不可思議な行為は、主体の絶対的かつわがままな視点から「こんなにわかる」をもたらす。「こんなにわかる」は、読者からすれば「どれだけわかったの?」と見えていて、作品と読者がはっきりと分かり合うことが出来ない一点である。

だから、一見このわがままな主体は、「こんなにわかる」を謎として提示しているように見えるが、実はその謎を解き明かすヒントはこの句には何も書かれていない。つまりそれは謎ではない。

むしろここで主体が提示する謎は「宙」である。「滝のまへ」という下五は経験的なイメージを与えていて、「宙」のサイズや質感へと連携する。読者のなかで拡散するのはこの「宙」のイメージである。

興味をそそられるのは、本来、謎として提示されている「宙」とは別に、「こんなにわかる」という思わせぶりな態度である。「こんなにわかる」はこの句が提示する空間とは別の(その外側の)何かに支えられている(はずだ)。それは映画館で映画をみているときに、隣の席に座った異性に突然手を握られるような、そんな驚きをこの句にもたらしている。

煙ごしに祭のほとんどと逢へる

前述の「宙を抱けば~」の句と同様、この句も「祭のほとんど」という曖昧な空間に「煙ごし」という上五が連携することで立体的な祭の空間を構成している。そのような空間に「逢へる」という語を置いて、世界に変な方向から接近しようとする。

この「逢へる」という語を使うことで「祭りのほとんど」は主体化される。この「祭りのほとんど」は人や物などすべてを含むことができるが、この「逢へる」の一語によって、「逢う対象としての主体」として命令される。その一点において、主体はまだ大事なものを手放すことができない。

また美術館行かうまた蝶と蝶

この句を特別なものに仕立て上げているのは、ふたつ目の「また」である。例えばこの句を「また美術館行かう」の発話主体と、それに呼びかけられている誰かを「蝶と蝶」が象徴している、と読むことも不可能とは言わないが、その場合ふたつ目の「また」は読み落されている。

「また」が繰り返されることは単なる偶然ではなく、二度目の「また」には意味がある。一見この句は「美術館」「蝶」という物質的なもののみを書いているように見えるが、それだけではなく、そこに流れる〈時間〉そのものを対象としているのだ。

大事なのはそこが「美術館」であることではなく、それが「また」であることだ。であれば、この「蝶と蝶」(この「蝶」は、象徴ではなく「蝶」そのものである。為念)も〈時間〉のイメージで捉えなおすべきだろう。発話主体のはかない言葉づかいや文脈的な意味内容に惑わされてはならない。この句の美しさは、〈時間〉そのものを描こうと試みている、その志向性にあるのである。

その他、気になった句
吟行の一団蜘蛛の囲の中に 竹内宗一郎
汗の顔こもごも覗く宇宙館 司ぼたん
地震警報子を横抱きに鳳仙花 江渡華子
ひらきゆく手のあり亀のゐたところ 小津夜景
蝲蛄のぞはぞは概念橋の下 遠藤千鶴羽
鮟鱇の夢さばかれた白図面 豊里友行

(*1)「倫理 〈悪〉の意識についての試論」アラン・バディウ 河出書房新社


第380号2014年8月3日
宮崎斗士 雲選ぶ 10句 ≫読む
第381号2014年8月10日
遠藤千鶴羽 ビーナス 10句 ≫読む
豊里友行 辺野古 10句 ≫読む
第382号 2014年8月17日
佐藤文香 淋しくなく描く 50句 ≫読む
第384号 2014年8月31日
竹内宗一郎 椅子が足りぬ 10句 ≫読む
司ぼたん 幽靈門 於哲学堂 10句 ≫読む
江渡華子 花野 10句 ≫読む
小津夜景 絵葉書の片すみに 10句 ≫読む

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