小池正博に出逢うセーレン・オービエ・キルケゴール、あるいは二人(+1+1+1+n+…)でする草刈り
柳本々々
想起されるものは、すでに過去にあったものであり、いわば後方にむかって反復される。これに反して、ほんとうの反復は、前方にむかって想起するのである。したがって、反復は、それが可能であるならば、人間を幸福にする。
(キルケゴール、前田敬作訳「反復」『キルケゴール著作集5』白水社、1995年、p.206)
夏草を刈る夏草の関係者 小池正博
小池正博さんの句集『セレクション柳人6 小池正博集』(邑書林、2005年)からの一句です。
ずいぶん唐突すぎるかもしれないのですが、この小池さんの句に〈関係〉しようとする前に、キルケゴールの有名な、かつ読む者を関係の困惑に誘い込むような次のことばを思い出してみたいとおもうのです。
人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。ここでわたしなりにキルケゴールの〈関係〉についての上記のことばを端的にまとめてみるならば次のようにいえるのではないでしょうか。
(セーレン・キルケゴール、桝田啓三郎訳「死に至る病とは絶望のことである」『死にいたる病』ちくま学芸文庫、1996年、p.27)
〈関係〉はひとつに収束するものとしてあるのではなく、〈関係〉する〈関係〉のn連鎖としての〈関係〉としてみるべきだ、と。そしてそこにこそ、〈じぶん〉はあるんだ、と〔*1〕。
小池さんの句にもどります。
この句には、すくなくとも五つの〈関係〉する〈関係〉が指摘できます。〈関係〉してみます。
ひとつは、「刈る」という行為からの〈関係〉です。「夏草の関係者」は「刈る」という行為によって「夏草」に〈関係〉しています。行為によって生成されるアクションとしての〈関係〉です。
ふたつめは、「夏草の関係者」という〈記述〉による関係です。刈っているそのひとは、〈そのひと〉ではなく、「夏草の関係者」とことばによって〈属性〉として記述されている。そうしたことばによって生成されることばから派生した属性的〈関係〉です。
みっつめは、同語反復として繰り返された句における「夏草」と「夏草」の関係です。「夏草」は《二度》繰り返されたことにより、「(関係する)夏草」と「(関係される)夏草」に記号生成されていく。そうした「夏草」と「夏草」の差異=示差性としての記号〈関係〉。
よっつめは、語り手と「夏草を刈る夏草の関係者」との〈関係〉です。語り手は「夏草を刈る夏草の関係者」を(みて)、語っている。川柳として組織化している。語り手と「夏草の関係者」との〈関係〉。
さいごの関係は、わたしたち読み手とこの句との〈関係〉です。わたしたちはこの句を読むことによってこの句に〈関係〉してしまう。〈読む〉ことはいつでも〈関係〉してしまうことです。そして読み手はいつも〈単独者〉として〈関係〉を決め、あるいは〈関係〉から逃避し、〈関係〉へのみずからのふるまいを〈関係〉しなければならない。
以上、五つの関係がこの句には胚胎しているのではないかとおもうのです。
そうして、この句をひとめみた瞬間、それがなにかはわからないけれども眩惑してしまうのだとしたら、それはこの句がこの句に内在している関係の交錯した状況を一瞬のうちに束ねつつも生成してしまっているからではないか。
冒頭でキルケゴールはこう述べていました。
じぶんとは、関係する関係なのだと。
これは、関係が分断されているからではありません。
関係が関係として関係するからこそ、そうした関係をむすびあわせていく(ことをせざるをえない)自己がある/いるからです。
そしてそのような自己は川柳のひとつの主体としてもこの句にあらわれている。
ひとつの関係的主体としてまとめてみると、どうなるか。
さきほどの五つの〈関係〉する〈関係〉を〈関係〉として束ねていくならば、つぎのようになります。
夏草を刈る夏草の関係者。
という「夏草」が「夏草」に〈関係〉していくこの句。
を川柳として組織化することで〈関係〉している語り手。
に〈関係〉しつつも〈関係〉をつむぎはじめてしまうであろう読み手。
という〈関係〉を意識したやぎもともともと。
に〈関係〉してしまい今この〈関係〉をめぐる奇異な文章を読んでいる〈あなた〉。
のとなりですやすやねむっている〈だれか〉。
が夢のなかで想っている〈だれか〉。
のとなりでやはりすやすや寝ている〈だれか〉。
の……
〈関係〉とは、〈関係〉ではないのです。
〈関係〉とは、収束することのできない〈関係〉が、〈関係〉のままに続いていくことなのです。
〈関係〉とはそのような〈関係・的〉にしかとらえられないものであり、そしてその限りにおいてで《しか》〈関係〉は〈関係〉としてなりたちえないのです。
そしてその終わりのない〈関係〉のなかで、〈じぶん〉が生まれてきたり、句の意味生成がうまれてきたりする。
あえていうならば、その〈関係〉する〈関係〉をどのようにひきうけ、どのように生きるかという〈実存〉にこそ、〈わたし〉の生の、〈あなた〉の生の、川柳の意味生成の〈関係〉が発動しているはずです。
〈あれか、これか〔*2〕〉ではなかった盲目的なレギーネとの熱烈な恋愛からの婚約と、にもかかわらず〈おそれとおののき〔*3〕〉のなかで一方的な婚約破棄を行ったキルケゴール〔*4〕。
彼はそういうかたちでもってさえも、〈関係〉する〈関係〉をつくっていったようにわたしはおもうのです。
ひとは〈関係〉をやめることはできない。〈関係〉をひきうけることしかできない。どのような別れや破棄も、それは〈非関係〉ではない。ひとつの〈関係〉する〈関係〉をひきうけ、それを〈自己〉としていくことなのだと。
そのとき、草刈りをしていたセーレン・オービエ・キェルケゴールは、おびえつつも・ふいうちのように小池正博にであう。そうして、ああこれも〈関係〉する〈関係〉ではないか、と次の句をみながら、キルケゴールは『死に至る病』をもういちど(おなじふうな・ちがったかたちで)書き始めるのではないか。「夏草」を断念できなかった「夏草の関係者」として。「夏草の関係者」として〈関係〉しつづける「可能性」として。
「反復は、前方にむかって想起する」。だから、
たてがみを失ってからまた逢おう 小池正博
気絶した人があると、水だ、オードコロンだ、ホフマン滴剤だ、と叫ばれる。しかし、絶望しかけている人があったら、可能性をもってこい、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ、と叫ぶことが必要なのだ。可能性を与えれば、絶望者は、息を吹き返し、彼は生き返るのである。
(キルケゴール『死にいたる病』、同上、p.75)
【註】
〔*1〕 訳者の桝田啓三郎はこのキルケゴールの「関係」を、「動的な関係」における「態度/行為」であるとして次のように注解している。「ここで関係と言われているものは、すでに成り立っている一定の固定的な関係ではない。そうではなくて、相反する、あるいは相矛盾する二つの関係項のあいだに、関係の仕方に応じて違ったふうに成り立つことのできる動的な関係である。つまり、二つの関係項それぞれの重さの違いに従って釣り合いがとれたりとれなかったりしうるわけで、両者のその釣り合いに応じて、できてくる関係が違ってくるわけである。(……)しかもこの関係は、客観的に成立するそれではなく、どこまでも主体的なものと考えられねばならない。つまり、人間の心の状態、というよりもむしろ、「態度」ないし「行為」なのである。」(桝田啓三郎「訳注」『死に至る病』ちくま学芸文庫、1996年、p.265ー6)。たとえば、やはりわたしなりにことばにしてみるならば、カレーかハンバーグか選ぼうとし、選びかねる関係的関係のなかで、ただ一回きりのダイナミックな蠢く関係がもちあがり、そのもちあがった関係に、自身の関係のふるまいを関係として(あきらめつつも・にもかかわらず)〈決めよう〉とするその関係する関係に関係する自己はあらわれる、といえるのではないか。きょうは、カレーに、しよう。
〔*2〕 「結婚するがいい、そうすれば君は後悔するだろう。結婚しないがいい、そうすれば君はやはり後悔するだろう。結婚するか結婚しないか、いずれにしても君は後悔するだろう。君は結婚するかそれとも結婚しないかのどちらかだが、いずれにしても君は後悔するのだ。(……)真の永遠はあれか=これかのあとにあるのではなく、そのまえにある」(キルケゴール、浅井真男訳「あれか、これか 人生のフラグメント」『キルケゴール著作集1』白水社、1995年、p.71ー2)。「真の永遠」は、いつも〈てまえ〉にある。〈あれか=これか〉のその〈てまえ〉に。「ぼくは決して始めないから、ぼくはいつでもやめることができる」とキルケゴールは言う。だから、キルケゴールは、熱烈な恋愛を婚約破棄することで〈てまえ〉に引き戻す。カレーにするか、ハンバーグにするか、わたしを選ぶのか、それともわたしではないあのひとを選ぶか、その「あれか=これか」の「あと」には「永遠」は、ない。「永遠」は、「あれか=これか」の〈てまえ〉に、ある。たとえばその〈てまえ〉に戻ってゆく〈結婚映画〉として岩松了監督の映画『たみおのしあわせ』(2008年)をあげることができるだろう。麻生久美子ことヒトミといままさに「結婚」しようとしているオダギリジョーことたみおの「しあわせ」もおそらく〈てまえ〉にある。映画ラストにはきちんとその〈てまえ〉=「真の永遠」が用意されている。
〔*3〕 「悲劇的英雄はすみやかに準備をととのえ、すみやかに戦い終える。彼は無限の運動をおこない、それからは、普遍的なもののうちに安らっている。それに反して、信仰の騎士はしばしも眠ることがない、なぜかというに、彼は絶えず試練(こころみ)られており、あらゆる瞬間に、後悔して普遍的なものへ逆戻りする可能性があるからである。そしてこの可能性は、真理であるかもしれないと同様に、試誘(まどわし)であるかもしれない。そのどちらであるかの説明を、彼はだれにも求めることができない。それを他人に求めるなら、彼は逆説の外にいることになるからである」(キルケゴール、桝田啓三郎訳「おそれとおののき 弁証法的抒情詩」『キルケゴール著作集5』白水社、1995年、p.129)。婚約を破棄し、「あれか=これか」の〈てまえ〉を選んだキルケゴールは、「普遍」の安らいを得られない場所において「逆説」を生きる「信仰の騎士」としておそらく生きることになるだろう。「逆説」を生きるとは、〈関係する関係〉を収束=集束=終息させることなく〈関係する単独者〉として耐え抜くということであり、「絶望」としての「死に至る病」のまっただなかにおいてもむしろそれを〈関係しようとする関係〉として可視化し、「夏草の関係者」として〈関係〉を生き抜くということでも、ある。刈り、つづけること。かんけい、を。
〔*4〕 キルケゴールはレギーネに婚約指輪を返送するとともに次のような短い別れの手紙を送った。「どっちみち起るにきまっていることを何回もためしたりしないために、このようにします。しかし、このことが起ってしまえば、必要な力が与えられるでしょう。だからそうします。とりわけ、これを書いている者を忘れないで下さい」。夜は別離がかなしくてベッドでめそめそ泣いていたとのキルケゴール自身による述懐もあるが、しかし、かれは、《めそめそ》にもかかわらず、《そう》したのである。「このように/そうします」と二度も〈反復〉しているように、《そう》しなければならなかったから。そう、しました。(キルケゴールの別れの手紙の引用は次に拠った。工藤綏夫『キルケゴール 人と思想19』清水書院、1966年、p.66)
トポスとしての本棚においては常に、隣り合う書物同士の並列・ |
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