2015-02-01

【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第二章〉世界の向こう側のお話をきかせて 田島 健一

【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第二章〉世界の向こう側のお話をきかせて

田島 健一




02.(葛城蓮士)

俳句をつくるとき、いったい「ことば」はどこからくるのだろうか。

私たちはすべての「ことば」の集合から、自分の求める「ことば」を選んでいるわけではない。そこには「ことばのかたまり」とでも言うべき大小の言語セットが存在していて、通常はその言語セットの内がわで、私たちは日常を生きている。

例えば看護師であれば、医療や看護に関わる言葉セットのなかで情報を交換しながら日々の仕事を遂行し、ひとたび家に帰れば家庭の言語セットのなかで家族と会話をするだろう。人は、そのような大小の言語セットの複合体である、とも言える。

隋道に昏き罅あり夏深し  葛城蓮士
萬屋に黄色の値札猫の恋

「隧道」は言うまでもなく「トンネル」のことで、「萬屋」はもしかしたら「100円ショップ」のことかも知れないし、そうではなくあたかも「萬屋」としか呼ぶことのできない趣をもった店なのかも知れない。私たちはよく「世界」という言葉を(worldではなくuniverseとして)使うが、その「世界」の質感というのは、そこを生きる主体の言語セットに左右される。

「隋道」「昏き」「罅」「萬屋」「黄色」「値札」がこれらの句の主体を構成する言語セットで、この世界に住む主人公たちである。そこに「トンネル」や「100均」などという言葉が含まれていないのは偶然ではない。それが偶然ではないために、実はその世界には平和が維持されていて、その限りにおいて暴力的なものは何も発動しない。

妹の檸檬を絞るとき殺意

言語セットによって守られている平和があるからこそ、ここで「殺意」と言ってみたところで、それによって世界のどこかで警報が鳴ることはないのだ。

世界が危機にさらされるのは、そのような言語セットを主体が横断したときに他ならない。看護師の妻が、仕事を終えて家にもどって、家族のために肉料理を作りながら、突然、肉の「血液」について語りだしたとき、はじめてうっすらと恐怖が生まれるのである。世界を構成する言語セットからゆったりと排斥されている言葉が、姿をかえて世界に再帰するとき、その言葉ははじめて「異物」として作用するのだ。

その世界がどのような言語セットで構成されているかを知ることはそれほど難しいことではないが、そこから何が排斥されているのかを知ることは難しい。わたしたちの眼は、見なれた日常の風景から不都合なものはゆるやかに排除してしまい、それを見ることができないからだ。

梟の飛ぶときそつと首しまふ

私たちには、そつとしまわれた梟の首を見ることはできない。世界が言語セットで構築されていて、その言語セットの外部にあるものを見ることができないということは、私たちの視線の限界を示している。それは言い換えれば、私たちの立っているこの場所が言語セットによって取り囲まれていて、私たちに別の視点を許さないということだ。

世界をみつめるカメラはひとつしかない。それこそが俳句における〈孤独〉の正体であり、深夜の静けさのように私たちをつつみこんでいるのである。

〈孤独〉な私に呼びかけてくるものは何か。深夜の静寂を破り、時間を騒がせる「カラフルなことば」はあるのだろうか。

〈第三章〉へつづく

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