2015-03-08

BLな俳句 第6回 関悦史

BLな俳句 第6回

関悦史



『ふらんす堂通信』第141号より転載

少年も脱いだ水着も裏返る  柳生正名『風媒』

濡れた水着の密着を肌から引きはがす。その粘性で水着は裏返る。そのとき少年もともに裏返るというのは、どういう事態か。それは水着と少年が質料において等価の存在となっているということである。水着には重い実在感がそなわり、少年は肉体に特化してただの物のようになる。生々しい無機物と、内面なき有機物として彼ら=それらは今まで肌を介して一体となっていた。

濡れた水着を脱ぐときのあの心もとない体感にも裏打ちされ、句には情交を終えて虚脱した二つの物=身体が残る。物としての少年はおのずと人形に接近する。精妙に生体を擬したきれいな無機物のような、無欲でしかもウェットなエロスを掬い取った句といえる。


海知らぬ少年眠り虫鬼灯
  柳生正名『風媒』

「海知らぬ少年」という出だしは、寺山修司の短歌《海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり》を想起させ、大自然への憧憬を介して相手の気を引こうとする純真で清潔な恋情を思わせる。

一方、この句では、少年は「海」に象徴される大きな何ものかを知らないまま眠りについており、それを語り手が眺めていることになる。そこに慈しみの情が感じ取れる。語り手は「海」を知っているのだ。かつて少年であった自分を重ねて見ている気配もある。

虫鬼灯は鬼灯の外皮が枯れて繊維だけが残り、中の赤い実が透けて見える状態になったもの。それ自体も童心やノスタルジーに通じる物件だが、その形状はおのずと目を引きよせ、透けて見える赤い実が、眠っている少年の、本人も知らない可能性の核心のように思えてくる。つまりこの虫鬼灯は語り手の近くにある現物であると同時に、少年、および少年と語り手との関係の暗喩にもなっているのである。瑞々しさを保つ実のような少年と、その少年に直接は触れないまま優しく包み込むすでに枯れ気味の語り手。かつての自分に重なっても見えるだけに、かえってその眠る身体が自分とは別の存在であることも明確となる。二人であることのさびしさと愛おしさが、網状に枯れた虫鬼灯の皮に包み込まれるように安置されている句である。


男郎花近江で硝子すつと切る
  柳生正名『風媒』

芭蕉の《行く春を近江の人と惜しみける》は立ち去りがたく、別れるのが惜しい風情だが、こちらの近江はかなりクールなようで、硝子を「すつと切る」となる。鉱物の冷やかさ、滑らかさと、それを切る一見非情なまでの動作の無駄のなさに官能が満ちている。

男郎花は白い細かい花が密集して咲くので、その清潔感と硝子も合うが、字面の喚起するイメージがそれ以上に利いているといえる。花のような男、男のような花との情緒のべたつきのない冷静な交渉の向こうに、情緒をべたつかせる必要すらない信頼関係が成り立っているようでもある。

「近江」は日本史上のもろもろの出来事が積み重なった土地でもあり、琵琶湖の広大な水面のイメージもある。クールな官能の背後にあるそうした「近江」の有機性が、「男郎花」と「硝子」の交情を、澄んだ出汁のような暗喩性で下支えしている。


臘梅や阿修羅に腋の六つほど  柳生正名『風媒』

阿修羅といえば国宝、興福寺の阿修羅像の、緊張と憂いをはらんだ少年的風貌の印象が、細身ながら三面六臂という異形の造形とあいまって圧倒的。この句も当然そのイメージを踏んでいると思われる。

ただし通常ならば「六本腕」ととらえてしまうべきところを、六つの「腋」ととらえたところが俳諧的なずらしでもあるのだろうが特異で、戦闘神たる阿修羅が、生身の弱点をその異形に応じて六つも人目にさらし、くすぐられもしかねない奇異な可憐さを帯びてしまう。突如、攻守逆転されたようでもあり、その急変にエロスが宿る。

乾漆像から不意に六つの「腋」を持つ肉体に引き戻される阿修羅の変容を、臘梅の黄の滑らかな鮮やかさが、植物的生命の側から援けている。


春月や六臂頽(くづ)るゝ美少年  武田肇『ダス・ゲハイムニス』

阿修羅と思しき句をもうひとつ。古語「頽(くづ)る」は「崩る」と同じ。

端然とした立ち姿を示していた柳生正名句の阿修羅に対し、こちらはことを終えて虚脱したさまの阿修羅となっている。戦闘神ながら受けの立場ということか。いや、本業の戦いを終えたあととも取れなくはないし、戦闘美少女よろしくそちらに取ってみたくもなるのだが、「春月」が殺気を削いでいる。

「六臂」の少年といえば阿修羅としか思えないが、その名を明示されることはなく、「春月」のもとの、放心のさまの「美少年」と言いとめられていることで、戦闘神の精悍さとの対比が際立つ。特徴的な「六臂」が、阿修羅を示すただの符丁から、頽れることで、柔らかく色気を放つ生身の細腕へと転じるが、その色気はあくまでも異形に裏打ちされたものだ。柳生正名句の「臘梅や」にせよ、この「春月や」にせよ、語り手は奇妙に余裕をもって審美的な目で眺めているようで、これは美しくも現実離れした肢体を持つ者が引きよせ、引き受けざるを得ない視線なのだろう。

読者としては、そこから却って、文字通り偶像視される阿修羅の内面に入り込み、その孤独を観念することもできる。


八月の少年四人蛸を倦む
  武田肇『ダス・ゲハイムニス』

こちらも手足の数に関わる句。

少年四人の腕または脚の数は計八本で蛸の足と同数となる。あるいは四肢を全部足して蛸二匹分としてもよい。

下五の「蛸を倦む」という詰めて飛躍した言い方がいかようにも取れ、想像が膨らむところである。

少年四人が蛸を囲み、つついて遊んでいるわけではあるまい。それならば「蛸に」で充分であり、「蛸を」の捻じれを含みこむ必要はない。

てっとり早く言ってしまえば、この少年四人は自ら蛸の様態を真似てでもいるかのように、互いに柔らかく絡み合って愉しんでいたという隠喩として取るべきだろう。「蛸であることを倦」んでるのである。

もっとも蛸といえば、葛飾北斎による艶本『喜能会之故真通』中の木版画「蛸と海女」から、現在の萌え文化の触手絵にまで至る性的喚起力に富んだモチーフであり、そこからすれば、少年四人が北斎の海女よろしく大蛸に責められている図との解釈もあろうが、この場合は何の能動性もなく蛸側のなすままとなって、「倦む」どころでは済まなくなってしまう。「八月の」と、季語も蛸足の数と揃えられたこの句は、明るくも閉じた系の中での少年四人のみの官能と倦怠が主ととるべきだろう。だがその背後には喩によってのみ引き込まれた幻の大蛸もひそんでおり、八月の光そのものが少年の四肢とからみあう蛸足のような怪しい代物と化してもいるのである。


はつなつのひかりの友を甘噛みす  斉田仁『黒頭』

常識的に読んでしまえば、句意は「初夏の光」の中で「友を甘噛み」しているということになり、場面を平板に詠んだだけの句となる。同性愛的な句材であると否とを問わず、性交場面の類をそのまま描いた句は物欲しげでつまらないものになりがちなのだが、この句がその弊を脱しているとすれば、それはひとえに格助詞、「ひかりの友」の「の」の多層的粘着性を生かしていることによっていよう。つまり「光の中にいる単なる人である友」という合理性の向こうに、「光である友/光の属性を帯びた友」という別の存在格が潜んでいるのである。

友がそうした存在であるならば、それを甘噛みしている語り手も同格、またはそれに準じる異次元性を帯びた存在となるだろう。一句は翻然、「はつなつのひかり」同士が人の姿をまといつつ濡れ場を演じているような、非物質的な透過性を帯びるのである。この句の清潔感はそこから来る。平仮名に開いた表記はその手助けをしているに過ぎない。


少年ひとり夏蝶追うたびに回廊  宮崎斗士『そんな青』

この句、夏蝶を追うたびに実物としての回廊にまぎれこむという句意ではなく、追うたびに少年と夏蝶による非在の回廊が形成されるということだろう。「ひとり」である点が重要である。何人もで遊んでいたら、少年は実在物の次元にとどまったままとなる。夏蝶との逢瀬はひとりの時でなければならない。

しかし、ことさら奇蹟的な一期一会の出会いというわけでもなく、「追うたびに」としばしば夏蝶と非在の次元にこもっているらしいこの少年は、そもそも人格的まとまりや実在感が希薄である。「少年」という属性がもたらす透明感を介して、ファンタジー的な時空につなげた句ではあるのだが、そうした句が陥りがちな平板さや陳腐さから身をかわしつつ、愉楽に満ちた時空を形成し得ているのは、建物内外の境目を屈折しつつめぐる「回廊」の形態によるところが大きい。それと「追うたびに」の回帰性が響き合う。試みにこの回帰性をとりはらい、「少年ひとり夏蝶を追い回廊へ」と改悪したときの味気ない報告句ぶりと読み比べてほしい。ここでは「少年」と語り手は完全に切り離されてしまっている。

この回廊は先にもいったように非在のものである。ところが少年の希薄な実在感が転移でもしたかのようにして、この回廊は奇妙ななまなましさを備えている。建築の迷宮性と、身体の迷宮性が夏蝶追跡の遊戯を通してつながりあっているためである。そしてそのことは同時に「少年」と語り手とを迷宮的に光のなかに流動させ、溶けあわせる働きも持っているのだ。

「少年」という語の詩的価値、つまり、希薄で身軽な、それでいて悠久性をもつ官能を外から描写するのではなく、「回廊」に散り拡げることで輝かしくとらえた句といえる。


働いてゐて炎帝に跨がるる  鈴木牛後『暖色』

炎帝は古代中国で、夏を観念的に神格化した存在。俳句では単なる夏の季語でもあるが、炎の帝王という字面が、圧倒的な力を持つ攻撃的なキャラクターを思わせる。

作者は北海道で酪農を営む人だが、そうしたことを知らずとも野外での労働中ということは一目でわかるだろう。

下五の「跨がるる」に生々しい色気がある。抽象的に攻められているのではなく、髪膚に密着しているのである。また、直立しているのではなく、作業のために前かがみになっているのではないかとイメージさせる効果もある。

それにしても真面目に働いている最中の男に無造作に跨がる炎帝の、なんと傍若無人なことか。諦めとも、受け入れとも微妙に違う、跨られている側の屈辱感の希薄さが句の口調からはうかがわれる。炎帝にしてみれば取るに足りない存在かもしれないが、激しそうな性格からして、この反応の薄さはさらなる加虐を呼ぶとも想像される。はたして支配的な立場にいるのはどちらなのかと考えると、炎帝の激しさを淡々と受け流す男の側が、次第に輝いて見えてもくる。

 *

Tシャツ  関悦史
やめろよといふ小声せり夜の柳

列車揺れ初夏少年の身が触れあふ

少年期股間へ万緑がまはり

合宿の夏布団汝が隣占め

自転車(チャリ)二台「空腹!」「俺も!」「じゃーね」と別れ夏の暮

競泳を終へ青年に乳首あり

炎帝や青年を撲ち喉にも入る

Tシャツ内へ誰の手だ俺男なのに

夏の海野郎大方アナルは処女

   「※筑駒は男子校です」

秋澄むをミス筑駒の肢体とす

2 comments:

俳句飯 さんのコメント...

すべてがうまくいく・・・そんな甘い幻想の崩れる様が少年に託される。そんな切なさを感じました。

銀漢や少年ゴツッとしていたり 飯

水菜 さんのコメント...

それが悪いという意味ではないのですが、関さんのBL俳句はBL感よりゲイ感が強いですね。どこがといわれると難しいのですが。