【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第七章〉遡及する意味とまだここに訪れていない時間
田島健一
07.水の隅々(田中惣菜)
〈意味〉というものは、俳句に必要なものなのか、そうではないのか。
この問いは〈意味〉が自明の存在であることを前提としている点で足もとがおぼつかない。そもそも〈意味〉というものは、そこに「ある」とか「ない」と明確に指示できるような確固とした輪郭をもつものだろうか。
やはらかきところに春の熊座る 田中惣菜
この句の「やはらかきところ」とはどこか。「やはらかき芝生」「やはらかき水辺」など、この「ところ」を具体化する表現はいくらでも思いつくが、その具体的な場所を言い表さないことで、この句は明確なイメージを保留している。言うまでもなくその場所にかたちを与えるキーワードは「春の熊座る」に他ならない。
「やはらかきところ」とはどこか、それは「春の熊」が座る「ところ」である。こうして保留されていた「やはらかきところ」の質感が「春の熊座る」によってかろうじてイメージを結ぶ。
しかし一方で「春の熊」とはどんな熊なのだろうか。言うまでもなくそれは「やはらかきところ」に座っているような熊である。すでに保留されている「やはらかきところ」によって、「春の熊」はすでにただの「熊」ではない。
ここで重要なことは、このようにして「やはらかきところ」と「春の熊座る」がお互いにイメージを支えあっているにも関わらず、イメージの中心となる「ところ=場所」は、まったく明確にはなっていないということだ。
どのように読んだところで、この「ところ=場所」を明確に確定することができない。「ところ」という一語は、この句の消失点として消されていて、いわばそれは読み手の解釈に委ねられている。
いわゆる〈意味〉とは、句に書かれた一語一語が指し示す場所に定位置を持つような実体ではなく、句のもっている基礎的な構造に、読み手の思想的解釈も含めたプロセスそのものである、と言うことはできないだろうか。
夕顔やきれいに折れた列にゐる
この句もまた「きれいに折れた列」が、いったい何の列なのかは提示されていない。さきほどの「春の熊」の句と異なるのは、その列が何の列なのか、イメージを結ばせるキーワードが他に与えられていないことである。
不思議なことに、この「きれいに折れた列」について、多くの読み手は、具体的な「列」をイメージすることができないにもかかわらず、それでも自分自身にとってのこれまでの「列」の記憶と照らしつつ、それとは完全に一致しないながらもどこかで共通点をもっている。この「きれいに折れた列」は、私たちにとって「ありうる」、場合によっては「いつか私も経験するであろう」イメージとして、いわば先取りするようにしてこの句と折り合いをつけるに違いない。
そしてもし読み手がこの「きれいに折れた列」について完全に経験するとすれば、それは未来における時点から遡及してそれを経験し、そこで構成された〈意味〉を知るのである。あの「きれいに折れた列」とは、このことだったのか、と。
ここで言う〈経験〉とは、まだここにないにも関わらず、いまこのときの〈意味〉を保留することで、句に関わりをもっている。
青芝や鼻先に触れやうとする
水澄みて足元に近づいてくる
藤の実や毎日を縫ふやうに会ふ
〈意味〉とは多かれ少なかれ、そのように遡及的に読み手に訪れる。そこに書かれたことの〈意味〉を生成する経験や思想は、「不可解に書かれたことば」を、事後的に意味あるものとして結び付け構成する。
仮に、その句が完全に辞書的な意義で構成されてそこに書かれているように見えたとしても、それがそのように書かれていることの〈意味〉は、そこに書かれたことのひとつ上の位相で読み手のもとに運ばれてくる。
このようにして書かれた句は、作者と読み手の経験や思想の時間的な差異のなかで、それぞれが想像した以上のことをそれぞれに〈意味〉してしまう。たとえ作者であろうとも自分が書いたものの真の〈意味〉を知り尽くすことができない。なぜならそれは読み手ひとりひとりの未来という時間のなかで無限に拡散してゆくからに他ならない。
もしそうだとするならば、そこに書かれた句の「所有者」はいったい誰なのか。俳句をつくる私、とはいったい誰なのだろうか。
〈第八章〉へつづく
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1 comments:
句の所有者は、実はそこに書かれた言葉そのものなのかもしれません。
人間の側が俳句を作っているように見えて、実は言葉に動かされて、俳句という新たな形態の言葉の可能性を作らされている、
いわば突然変異か何かの媒体にさせられているだけなのかもしれませんね。
少なくとも、俳句において言葉が一番偉いことは間違いないことと思います。
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