2015-04-26

俳句の自然 子規への遡行42 橋本直

俳句の自然 子規への遡行42

橋本 直
初出『若竹』2014年8月号 (一部改変がある)

子規に文脈を戻す。明治三〇年の一月から三月にかけて、子規は「明治二九年の俳句界」を書き、「日本」に23回に渡って連載する。虚子と碧梧桐を明治の新派の代表俳人として称揚し、それぞれの個性を評したことでよく知られる評論である。時を同じくして、松山から柳原極堂の手によって彼ら新派の機関誌となる「ほとゝぎす」が発刊された。

この段階で、旧派宗匠を相手にする意味での子規の俳句革新は一息ついていたと言えるかもしれない。四月には「行脚俳人芭蕉」を書き、さらに「俳人蕪村」、「一茶の俳句を評す」と、立て続けに今日最も知られる江戸の三代俳人について書いている。そしてこの一年は蕪村の研究が進み、翌年には蕪村句の輪講会(後に『蕪村句集講義』として出版)が始まる。つまり、子規的古典の再構築作業にとりかかるのである。さらに、短歌革新にも着手し、「歌よみに與ふる書」の連載を始めることになる。

このように、病床にあって、子規の文学活動は充実しているといって良い。しかし、病気そのものは確実に子規の体を蝕んでゆく。明治二十九年二月より腰の痛みで以後徐々に寝たきりの状態となり、三月にリウマチではなく脊椎カリエスであることが判明している。翌三十年三月に一回目の手術。四月に二回目の手術を行っている。しかし経過は芳しくなく、高熱が続き、翌月には背中の切口から膿を一合余りも絞り出す治療を受けている。さらに、同時期、子規に哲学をあきらめさせた俊才米山保三郎が急性腹膜炎で急逝した。子規には思うところが多かったろう。

この時期、ふいに子規はまとまって新体詩を作成し始めている。新体詩というのは、いわゆる今言うところの詩の原型である。明治初期、日本において詩といえば主に漢詩であった。韻文としては他に和歌や俳句があったが、「文学」としての詩、すなわち西洋文学風の詩(ポエトリー)に当たるものは存在しなかったのである。そこで新たにこれを作成しようと試みられたのが新体詩であった。明治十五年、外山正一、矢田部良吉、井上哲治郎らが『新体詩抄』で創始したものである。彼らは当時の知識人であり、いわゆる詩人ではない。あくまで啓蒙的な試みであったため、単純に詩としてみると良い作品集とは言えなかった。が、これが端緒となって以後様々な試行錯誤がなされることになる。文学史的には、代表作である「初恋」で知られるような、七五調の抒情詩を軸にした島崎藤村の『若菜集』(明治三十年八月)が画期となって、抒情性が詩の主流をしめることになる。

『子規全集』第八巻の解題によれば、子規は明治二十一年から三十四年まで総数で九十八作品の新体詩を作成しているが、そのうち二十九年が二十七、三十年が四十八、三十一年が七と、この三年間で八割以上をしめているのである。つまり、この期間に目的をもって集中して作成、発表し、その後放棄してしまうのである。

なぜこの時期に子規の中で新体詩ブームであったのか、ということを考えると、詩壇の機運もさることながら、冒頭書いたように子規が俳句で一息ついていたことがあるのではないかと思う。おそらくはそれまでの俳句革新運動で培った方法を新体詩に応用してみようという野心をもったのではなかったか。言い換えれば、俳諧の発句を西洋の「文学」概念によって俳句として再構築したという自負をもっていた子規にあってみれば、その「文学」化した日本の韻文の方法で逆に西洋の詩型の創作に挑むことは、その嗜好にあっているように思われるのだ。

まず、例としてその二十九年に発表した最初の作品である「日本人」第二十四号掲載の「鹿笛」を検討する。「鹿笛」は子規の別号である「竹の里人」(主に短歌で用いられた)の名で発表されており、冒頭に以下のような前書がある。

「近者闌更集を讀む。中に鹿笛に谷川渡る音せわしといふ句あり。巻を掩ふて嘆じて曰く嗚呼僅々十七字、何ぞ其餘音の嫋嫋たる。乃ち之を附演して長歌一篇を作る。世人幸に蛇足を笑ふなかれ」

「附演」は「敷衍」だろうか。すなわち高桑闌更の句が、その十七字の短さによって詩情の余韻の物足りないことを嘆き、それを押し広げて長歌にしたのだ、というのである。長歌と書いているが、表記上は新体詩の形式で、今日それを想起するようないわゆる『万葉集』の長歌とは異なる。一行がほぼ七五調の定型で、三連からなり、一連目二十八行、二連目三十二行、三連目四十二行という、なかなかの長編となっている。その内容は、第一連で猟師が猟に赴く場面、第二連で鹿笛で牡鹿をおびき寄せて仕留める場面、第三連で牝鹿が牡鹿が呼べでも現れず嘆く場面で構成されている。つまりストーリー仕立ての詩であり、改行がなければ普通に定型の散文ということも、あるいは講談調の文語文ともいえるような作品になっている。この作品の初出時には、作品の後に「竹の里人とは何人ぞ、曾て俳諧壇上に一新機を瓢して頗る世間の注目を牽ける者、今乃ち手を新體詩に染めて一機軸を出し大に舊家の向ふを張らんとすと云ふ、世の所謂新體詩家見て何似の評言かある、里人必ず自ら主張あらん。(原文ママ)」との文言が付されていた。新体詩の革新に手を染める意志が読み得よう。

しかし、今や子規が詩を詠んだことは歴史に埋もれてしまっているのである。 

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