2015-05-03

テクスト版 柳本々々 やぎもともともとの短詩ミュージカル 人生って歌だから、ときどき急に短歌や川柳が暴力的に介入してきたりする



やぎもともともとの短詩ミュージカル
人生って歌だから、ときどき急に短歌や川柳が暴力的に介入してきたりする

柳本々々



ニョロニョロの幸福論(全三巻)
(ミュージカル川柳ナンバー0、幸福は全三巻)

の話をしながら、眼鏡屋さんの前にいたんですね(このニョロニョロの部分は川柳なんですが、歌うように話していた部分だったんです。わたしは、ミュージカルみたいに、短歌や川柳という形式を用いてとつぜん歌いだしてしまうくせがあるんです)。メガネ洗浄機があるね、なんていって、メガネをひたしてゆうじんがめがねの洗浄をしはじめた。それをみながら眼鏡洗浄をしているひとはいつもどこか静謐で、神聖で、なにか洗礼をうけている宗教的なひとのようにもみえるよね、っておもったんです。そのとき、また、私、思わず歌っちゃったんです、ミュージカルみたいに、短歌仕立てで。すなわち、

洗礼のようだあなたが静粛にメガネを浸す眼鏡洗浄
(ミュージカル短歌ナンバー1、眼鏡洗浄はいつだって静粛)

歌っちゃいましたが、こんどは、短歌ですね。道ゆくひとも、どうしたんだろうと振り返ってる。わたしひとりが、初夏のまっただなかでミュージカルしてるわけだから、とうぜんですね。でもきっと初夏だったから陽気になっちゃったとわたしは自分で納得したんですよね。短歌や川柳として、歌としての日常のことばがふいに挿入されるなんてそれ以外、かんがえられませんからね。濡れためがねを拭きながら、ゆうじんも、おいおいやぎもとどうしちゃったのとつぜん歌ったりなんかしてというんですけどね。私は、でも人生って歌だから、ときどき急に短歌や川柳が暴力的に介入してきたりする、ってなんだかお話のサブタイトルみたいにいったんですね。陽気だろうが陰気だろうがひとは唐突に短歌や川柳を介して歌ってしまったりする。いろんなひとをお母さんと呼びたくなったりもする。

間違っておかあさんという初夏でした
(ミュージカル川柳ナンバー2、先生のことをおかあさんと呼び間違えてばかりいたんだ)

また川柳でうたいました。そんなことも起こるのが、初夏なわけですね。ある日であった森のくまさんにさえ間違えて、おかあさん、と呼びかけてしまう。おっちょこちょいなものだから、森のくまさんから、お逃げなさいといわれ、逃げるとちゅうに泉に眼鏡さえ、落っことしてしまう。そうして泉の

女神から落としたメガネ質(ただ)されて「金の…」と答え、メガネうしなう
(ミュージカル短歌ナンバー3、眼鏡と善悪)

これ、歌ってごまかしてますけど、うそつきの歌ですね。落としたのはぼろぼろのめがねじゃないよ、金のめがねを落としたんだよと欲張りめがねでうそをついたら、めがねそのものをなくしちゃった歌ですね。わたしが歌い終わるとゆうじんが、ほんとにそんなことあったの? ときいてきて、うう、と私も呻きながら、眼鏡をはずしたり、かけたり、かけそこねたり、とれかけたままであえてかけつづけたりもしていたんです。他者からあらためて指摘されると、つまるところ、わたしは、うそつきなんじゃないかと思えてきたから。うそつきだけれど、わたしのからだいっばいに歌がみちあふれている。それは、いいにんげんだといえるだろうか。でもわるいにんげんが歌をうたえるだろうか。そこでわたしはある回想をはじめながら、また、歌いはじめてしまったのです。

平城京 大量に浮くブラウン管
(ミュージカル川柳ナンバー4、そうだ平城京いこうよ)

そんな平城京の話を授業中にしてしまって教室が歴史的にざわついたこともありました。もちろんうそなんだけれど、ミュージカル仕立て、川柳仕立てで歌ってるから許されるところがあるわけです。たとえばこう考えてみてください。歌ってるにんげんを殴れるだろうか、と。なぐれないわけです。この世界には殴ることができない二種類のにんげんがいる。歌っているにんげんと、眼鏡をかけているにんげんです。

「われメガネ、ゆえにわれあり」そういってメガネを残し、さったひと。∞←これ
(ミュージカル短歌ナンバー5、メガネをかけた俺は気がつけば微笑んでいる)

あ、そうだ。あともう一種類殴れないにんげんがいて、それは

トランクに鮭を詰められるだけ詰め
(ミュージカル川柳ナンバー6、トランクから鮭がはみ出ていてあぶないかんじがするひとだ)

ているひとです。これは、あぶないな、ってかんじがして、殴れないわけです。新巻鮭とかふりまわされて、追いかけられたくないですよね。お魚くわえたどら猫追いかけるならいいですが、お魚ふりまわすひとから追いかけられたくはないわけです。たとえそのひとが眼鏡をかけていたとしても。ちなみに眼鏡をかけているひとは生物学的には、

眼鏡界眼鏡門眼鏡網眼鏡目眼鏡科眼鏡属俺
(ミュージカル短歌ナンバー7、俺はいつもなっちゃいないぜ(眼鏡的に))

なわけですね。かなわないわけです。それはもう

デジタルのトイレに満ちる澄明さ
(ミュージカル川柳ナンバー8、トイレと凄絶)

くらい明白なことですよね。そんなふうに短歌や川柳が暴力的に介入するかたちで歌っているのがわたしのミュージカル的日常なんですが、ゆうじんが、いやあ、やぎもと歌うねえ、ミュージカル仕立てだねえ、というわけです。キリストももしかしてミュージカル仕立てで説教していたのかなあっていうから、じゃあそれも、と調子にのってまた思わず歌っちゃったわけです。もうなんでも歌にしていこうと。

「めがねならさいわいである。掛けなさい」イエス(メガネ)と使徒(ほぼメガネ)
(ミュージカル短歌ナンバー9、ペテロの眼鏡はZoff?)

眼鏡から世界史や日本史や歴史を読み解くのはどうだろう。戦争も思想も政治も経済も革命も関係なく、ただ眼鏡の一点だけにしぼって記述する眼鏡史としての歴史。そんなのはどうだろうっておもったんですよね。そんなことを歌ってたら、歴史の話だから、ゆうじんは退屈になってきちゃったのかな、なんだか

あくびからお祈りが出る天のひと
(ミュージカル川柳ナンバー10、わたしはいま天のひとといる)

になってしまって。だからそろそろこのミュージカルもラストナンバーだなっておもって歌い上げたんです。最後のナンバーを。さいごのうたを。

理科室の裏で胚胎するハナコ
(ミュージカル川柳ラストナンバー、それでも人生は回る)

それはこれから始まるわたしのもっとも悲しい或る夏の事件の始まりだったのです。

さあ、人生。

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