2015-06-07

【句集を読む】翼と虚子 北大路翼『天使の涎』を読む 坂井日菜

【句集を読む】
翼と虚子
北大路翼『天使の涎』を読む

坂井日菜



足下に猫をしまつて雪見上ぐ  北大路翼

『天使の涎』を読んだ人なら分かるだろう、
『天使の涎』2000句の最後を締めくくる猫と雪の句。

私は北大路翼の俳句が好きだ。
私と北大路翼が出会ったのは砂の城。
こう書いてしまうと、私が歌舞伎町で遊び歩きたまたま入ったバーが砂の城でそこで出くわしたかのように聞こえるが、断じてそうではない。
私はお酒も飲まないし歌舞伎町では遊ばない。遊んだことはない。
それは去年の春先、たった一度だけ所用があり降り立った新宿駅で紆余曲折あり不思議な人の縁で辿り着いたその先が真昼の砂の城だった。
「さあ帰ろう」そう砂の城をあとにしようとした時にふと目に飛び込んできたのが北大路翼の俳句だった。
紙いっぱいにびっしりと書かれた文字。
まずそれだけで圧倒された。
それが俳句だとわかったのは一瞬だった。
「すごい」
と思うより先に、心がすっと軽くなった。

「俳句だ…すごい」
俳句に触れたのは中学生以来だった。

「確か…俳句で同じような感覚になったことがある!」
「誰だろう、誰だったろう..」
私は片っ端から昔の代表的な俳人の句を探った。

「誰だ、いったい誰だ」
「確か、ほんとうに同じ感覚を感じた俳人がいる、いた」
「違う違う、これじゃない…」

見つかった。
それが高浜虚子だった。

遠山に日の当りたる枯野かな  高浜虚子

遠山の枯野に日の当たっている冬の穏やかな風景。
音はしない。
ただただ、遠山の枯野に日が当たっている、ただそれだけを詠んだ句。
わたしの目から入った17音が頭を一瞬で駆け巡り情報となって心に辿り着く。
何秒ではない、ほんの一瞬。
遠くの山々、音もなく静かな枯野に日が当たっている、日が沁み込んでいくような風景。
広がった景色。
ほんの一瞬、心がすっと軽くなった瞬間。

「これだ」

まったく同じであった。
北大路翼の俳句に触れた瞬間と。
北大路翼は延々とTwitterで俳句を詠み続けている。
次々と繰り出される無数の俳句。
北大路翼が歩けばそこにある景色が次々と俳句に変わる。

秋風や眼中のもの皆俳句  高浜虚子

高浜虚子が詠んだこの句のように。
目に飛び込んできたものを全て俳句にしてしまう。

花のある限り命のある限り  北大路翼
諦めぬ力たとへばチューリップ  北大路翼

いずれも春の桜、チューリップを詠んだ句。

花のある限り命のある限り
まず驚いた。
桜を美しいと言っていない。
桜に命とつけてきた。
桜の花の命、自らの命。
すごい。
「桜が綺麗、美しい」と言っていないのに、咲き誇るたくさんの桜の花が浮かんだ。
命のある限り という、力強い言葉と共に。
不思議な力だった。
俳句というとても短い詩形で、こんなにも力強さを感じたのは初めてだった。

諦めぬ力たとへばチューリップ
面白い。
「なんでチューリップなんだろう」
それよりも、そう思うよりも先に、春の太陽を浴びてまるで笑っているように咲く、自らの命を楽しむように誇らしげに咲くチューリップが見えた。
前向きさ、ひたむきな姿を強く感じた。
諦めぬ力をチューリップと例えた面白さ。
面白さだけではない、巧さ。

「高浜虚子がそこにいるみたい」
私は素直にそう思った。
私は私が感じた感覚だけを信じて、自分なりに北大路翼と高浜虚子の共通点を調ベてみたい追求したいと思った。
「この人を追わなければいけない」

翼と虚子

「たった17音に、なにが隠されているのか」

私が思う、北大路翼と高浜虚子の共通点。

そこを歩けば俳句が生まれるということ。

北大路翼はかつてTwitter上でこう発言しました。
「地味な発見を、飾らず壊さず伝達することが、僕のいふ俳句の技術である」

『天使の涎』ではまず、歌舞伎町の風景からはじまる。

おしぼりの山のおしぼり凍てにけり
春が来るすなはち春の歌舞伎町
朧夜のバー訪ねればなほ朧


ページをめくるごとに次々と現れる歌舞伎町の風景や一場面。
それはどんどん加速していく。

春の闇どこへも繋がらない通路
春の路地ひとのかたちの白い線


春の闇、春の路地の句からはなにか事件に巻き込まれてしまったような不穏な空気を感じる。

そんな歌舞伎町にも雪が降る。

大久保病院の全景が見ゆ雪の夜
ミラノ座の壁は凍える豚の色
愛再び新宿中の雪集め


大久保病院から伝わるしんと静まり返った雪の夜。
ミラノ座の壁、見たことはないけれど汚れているんだろうな。それを更に汚れた豚の色とすることで雪によるどうしよもない不毛な寒さを感じる。
愛再び新宿中の雪集め  一見すると俳句ではないような句。
愛再び  とドラマチックにはじまる。
わっと新宿中の雪が舞い上がって一カ所に集まるようなダイナミックさを感じる。
新宿に溢れる人々のドラマを雪という共通の事象を通して見ているかのようだ。
しかし、雪が出てくることで一見ダイナミックな中にも雪の結晶のような繊細さを感じる。

続いて虚子、東京、異国の地を歩く

東京
月青くかゝる極暑の夜の町
昭和11年7月19日 発行所例会。丸ビル集会室。

欧州へ
春潮や窓一杯のローリング
著飾りて馬来(マレー)女の跣足かな
春の寺パイプオルガン鳴り渡る
上海の梅雨懐しく上陸す
戻り来て瀬戸の夏海絵の如し

東京の夜を詠んでいた中でも印象的な句。
月青くで幻想的な雰囲気が伝わる。
極暑の夜の町とすることで熱帯夜だが、月青くかゝるがきいていて騒がしさはなく無数の人が消えていないような暑さの中に不思議な静寂さが漂う。
欧州。
春潮、香港出帆。
船の窓から見たであろう、窓一杯に広がるローリング。船が進むことで出来る波の軌跡。旅の始まりの力強さを感じる。
馬来(マレー)女
いよいよ国際色を感じる。
インド人女性の華やかな装いが想像され、跣足とすることで熱帯の空気感を感じさせられる。
パイプオルガン、シェイクスピア菩提寺
パイプオルガンはきっと当時では珍しかったであろう。なんの変哲のない句のように思われるがシェイクスピア菩提寺のパイプオルガンとなると、とても特別な感じがする。
パイプオルガンという言葉自体のやわらかさと春の寺がとても合っていて音色が想像出来る。
上海
長い旅も終わり間近の上海の梅雨。
日本の梅雨の季節を懐かしく思って出来たのだろう。上海にいて梅雨懐かしくとは、日本への恋しさが感じられる。
瀬戸の夏海
6月11日朝6時甲板に立ち出でて楠窓と共に朝靄深くこめたる郷里松山近くの島山を指さし語る。
とある。旅の終わり。旅の中で沢山の美しい景色を見たであろう虚子が郷里に戻りその海を絵の如しと詠んだことが印象的な句。
穏やかな朝の夏海から美しい景色と共に虚子の愛郷心も伝わる。

次に
散歩した時に目にしたであろう道に咲く花

北大路翼
あてもなく歩けば散歩母子草
芝桜ひろがるところまで日向
接骨木の花の真昼や犬は寝て


高浜虚子
犬ふぐり星のまたゝく如くなり

母子草のなんともやわらかな響きがどこか懐かしく、安心感を誘う。
あてもなく歩く先に出会うちいさな発見。
散歩してみようかな、とふと思う。
やさしさを感じられる句。
芝桜が足元に広がる。どこまでも広がる。
どこまでも日向なんだな、自分が芝桜になったみたいに春の日向にいるような暖かさを感じる句。
接骨木の花が咲いているような穏やかな昼下がり、犬も寝ている。
接骨木ニワトコのその名前がなんだかまるで少し犬の名前のような、可愛らしさがある。穏やかな昼下がり。犬と一緒に寝てしまいたい気持ちのいい時間。

高浜虚子
犬ふぐりはちいさなちいさな細かい花。
そんなちいさな花が集まりわっと咲いている。
地上に広がる青い星。
地面に咲いている花を地上にはない星と例えた可愛らしさ。
でもなにも違和感がない。
「足元にも星がありますよ、こんなにもちいさな花ですが、遠くにあるちいさな星がまたたくように咲いていますよ」
そう語りかけてくれる句。

この二人の句に共通していることこそ、
先に北大路翼が自身の俳句の技術としてあげていた
「地味な発見を、飾らず壊さず伝達すること」
です。
地味な発見を、飾らず壊さず伝達することによって、受け取り手にそのまま詠み手が見たであろう風景が伝わる。
どんなにちいさな発見でも、それを共有することによって楽しい気持ちになれる。
翼は虚子はなにげない風景を切り取り、語りかけるように俳句で見せてくれる。
自分も外に出て歩いたような、とても楽しい気持ちにさせてくれます。

次に
翼と虚子、絵にならない俳句。

北大路翼
日が眩し寒波に耐ふる葉が眩し
折るつもりなき枯れ枝の折れにけり


高浜虚子
桐一葉日当りながら落ちにけり

北大路翼
ある冬の晴れた日の一場面。暖かな冬の日差しを一身に浴びる寒さに耐えながら輝く葉。
その葉のちいさな命の輝き。
この17音は到底絵に出来ません。
寒波に耐える葉、そこへ降り注ぐ冷たい空気の中の冬の暖かな日差し。
私の住んでいるここ信州はことに雪深く、寒さに耐え雪に耐えて春を待つ一心で過ごしていた冬、とても励まされたような気持ちになりました。

17音から聞こえる、折るつもりのない枯れ枝の折れる音。
枯れ枝を真ん中に挟み、「折る」と「折れる」主体が行ったり来たりするところ。
これは絵で表そうとしても表わすことが出来ません。

高浜虚子
初秋の穏やかな日を浴びてゆっくりと落ちていく桐の葉。
その瞬間をとらえた句。
静止した文字から頭の中で展開される、ゆっくりと落ちていく桐の葉。
静止した文字から頭の中で展開される動いて見えた景色。

翼と虚子、二人に共通していることは共に絵にならない、絵にはしえない俳句を詠むということです。
冬日を浴びた葉が輝いて、そして寒さに耐えている瞬間。命の輝き。
折るつもりのない枯れ枝が折れた瞬間、その折れる音。
「折る」と「折れる」絵では説明しえない2通りの行ったり来たりする視点。
桐一葉が落ちていく、宙を上から下へと降りていくその瞬間。
動いたり、音が聞こえたりする俳句。
17音の静止した文字から繰り出される頭の中で広がる動いて見える景色。
それを感じた時の心の驚き。

客観写生

立冬の日の差してゐる滑り台  北大路翼
もの置けばそこに生れぬ秋の蔭  高浜虚子



冬日を浴びる滑り台を少し遠くから見ている
虚子
物を置けばその物の蔭が生まれる

両者そのままの風景を詠んだ句。
そっけなく見えるような句だが、誰が見ても普遍的な風景、事象を詠むことによって読み手は安らぎを得ることが出来ます。
なにも奇を衒わない、俳句の中の1つ1つの言葉に重みがない、意味を持たせようとしていない。それは俳句に無理をさせていないということに繋がる。
なにか詠んでやろうという気負いが全く感じられない。
だからこそ、安心して読める。
句の中の1語1語も、句がしんと静まり返っていることにより、その分、際立って見える。洗練されている。

表現の幅

花の雨花の狂気が地に浸みて  翼
一部分だけでも死体花の雨  翼
あてもなく歩けば散歩母子草  翼
諦めぬ力たとへばチューリップ  翼

大寒の埃の如く人死ぬる  虚子
大寒や見舞に行けば死んでをり  虚子
有るものを摘み来よ乙女若菜の日  虚子
よくころぶ髪置の子をほめにけり  虚子

花をモチーフにした翼。
人をモチーフにした虚子。


同じ「花」で明暗を表す。
花の雨ではおどろおどろしい風景を読み手に否が応でも想像させ、一転、母子草、チューリップでは道端に咲く花で連想させた健気さややさしさを表した。
同じ場所でも夜の顔があり昼の顔がある。
同じ場所なのにまったく異なる風景。
1つの「花」という共通のモチーフを通してまったく違う景色を見せてくれました。

虚子
同じ「人」で冷徹さと愛情を表す。
大寒の埃のように人が死ぬ
見舞いに行ったならばもう死んでいた
と、そっけなく、けれどもしんと静まり返ったその場の雰囲気をもそのまま詠んでしまう冷静さ。
あるものを摘んできなさい
と呼びかける虚子。
幼い髪置の子をほめる虚子。
冷徹さと愛情というよりも、あるがままを感じたままを詠む。
それが俳句の幅、冷徹さと愛情となって読み手には映り、その幅広さから面白みを感じます。

共通のモチーフを通して読み手側からは思いもよらない景色や気持ちを自在に俳句にすること。
新鮮な発見となって読み手に伝わります。

翼と虚子の挨拶句。

俳句とは景色や気持ちを詠むものと思っていた私にとって北大路翼と高浜虚子の挨拶句はとても新鮮なものに映りました。

俳句を自分だけのものにせず、自分の気持ちを俳句で相手に伝えるということ。

「お寒うございます、お暑うございます。日常の存問が即ち俳句」虚子俳話より

俳句で人に愛情を伝える。
俳句で祝福や哀悼を伝える。
それだけではない、そのやり取りを見た当事者以外の第三者も自分のことではないのに自分のことのようにとても温かな気持ちになったり、悲しみを感じられる。

私は二人の挨拶句を通して、まるで同じ温かな愛情を感じました。

ここで最初に例に出すのは高浜虚子。
小説  虹より。
結核のため29歳の若さで逝去した森田愛子に生前高浜虚子はいくつかの句を送り、そして逝去の一報を耳にした時、句を詠んだ。

虚子から愛子へ
虹立ちて忽ち君のある如し
虹消えて忽ち君の無き如し


愛子は柏翠とお母さんと共に一度小諸の虚子の元へ訪れる。
帰ってから間もなくして、愛子は病臥してしまう。

虹消えて音楽は尚続きをり
虹消えて小説は尚続きをり


小説  虹を書き続ける中で、心に愛子を思い浮かべる。
それに愛子も応える。

虹消えてすでに無けれどある如し  愛子

目には見えない虹を心と置き換えて、虹は無くとも先生と慕う虚子を想う気持ちはありますよ、ここにあります。と強く訴えかけられるような、遠く離れた三国からの愛子の想い。

死に瀕した愛子が虚子へ送った句。

虹の上に立てば小諸も鎌倉も  愛子

まるで愛子自身が虹の上に立って虹の上から小諸を鎌倉を見ているような、自らの死期を悟り、壮絶な中でもその気持ちを俳句にし、虚子に送った愛子。

虹の橋渡り交して相見舞ひ 

その虹を渡って見舞いに行きたい、
しかしこの句が愛子の元に届く一日前に愛子が亡くなってしまう。

「愛子の死を聞いた時は、私は別に悲しいとも思はなかつた。
私は愛子とは反対に、快くなつて来たのであるが、それを別にうれしいとも思はなかつた。」小説 虹より

虹の橋渡り遊ぶも意のまゝに 

その人を本当に心から慈しみ、病に立ち向かう姿を俳句で支え励ました。

元未亡人蕗の薹を齎す
夙くくれし志やな蕗の薹  虚子

青畝
聾青畝ひとり離れて花下に笑む  虚子

小諸の地、小諸の人々へ
人々に更に紫苑に名残あり  虚子

蕗の薹
虚子の元へ元未亡人が訪れ蕗の薹を齎す。
蕗の薹を届ける身近な間柄。ささやかな春の風景。
元未亡人のそのささやかな行いを志と俳句の中で表し、「志やな」とまるで語りかけるようにも表した。
なにげない日常の風景を簡潔に表し、感謝の気持ちを伝える。

青畝
花下に佇む青畝。
それをやさしくきっと青畝と同じように静かに笑みをたたえながら見つめる虚子の姿が目に浮かぶ。
虚子から青畝への愛情が句からにじみ出る。

小諸の地、小諸の人々へ
小諸の日々を想い、小諸の人々を想った句。
これで小諸の地を後にするが、「更に」とあることで、虚子の心の中で小諸で過ごしたこと、小諸の地で起きたこと、すべてが思い出となってその日々が続くような続いていくような余韻。
小諸の人々への感謝の気持ちと共に。
北大路翼『天使の涎』より

和楽の成人を祝ふ
撫子やはじめての酒はじめて酔ふ  翼

安藤克己引退
アンカツの気合の残る冬の砂  翼

悼む 鈴木詔子氏
欠場の赤き二文字や寒の雨  翼

亡き君の誕生日をFacebookが届け続ける。
生きてあれば。
月に怯える猫をかばつてゐるだらう  翼

侑季の誕辰を祝す
雪が雪宿してゐたる信濃かな  翼

くろちゃん「しずかのうみ」より
みづからの光を信じ藻の育つ  翼
泡に包まれ幾億の闇夜より  翼
命とは音と光と囁きと  翼

祝福・成人を祝う
いつも着物を着ている子だったからであろう撫子や  と始まる。
初めてのお酒に初めて酔うという二十歳の初々しい姿を思わせ、またその姿をやさしく見守る姿も浮かぶ。

讃える・引退
引退を讃えると共に「まだまだやれる」とも激励しているような力強い句。
気合の残る冬の砂と余韻を残したことによりより一層強まる。
今までの活躍を讃えるだけでなく、これからの新しい人生をも激励しているような二つの面が垣間見られる。


事故で亡くなられたボート選手への追悼句。
赤き二文字から無念さが、句全体から悲しみが伝わる。

亡き君の誕生日
亡き友達、誕生日に想いを馳せた句。
何も知らない第三者が見ても繊細な人柄やそのやさしさが伝わる句。

誕辰を祝す
一面の雪景色、名前のゆきを雪とかけた美しい句。信濃という地名が入りより一層穏やかさを感じる。

くろちゃん「しずかのうみ」
3句からとも幻想的な雰囲気を感じる。
みづからの光  健気な姿、何も知らない読み手も前向きさやひたむきさを感じられる。
幾億の闇夜  まるで夢の中にいるような追憶。泡に包まれ  によってとても癒される幻想的な句。
命とは  生命の営みを音、光、囁きで表す。最小限の表現によって、生命を表し掬う繊細さとやさしさ。

相手を想う気持ちを俳句にするということ。北大路翼の句も高浜虚子の句もどちらもさりげなく相手を想います。

さいごに
このような機会を与えてくれた北大路翼に感謝したい。
赤星水竹居が「虚子俳話録」で高浜虚子をこう語っている印象的な一文があった。
『先生は我々といっしょにたまに人の話をする時、「あの人はよく俳句に理解のある人ですよ」とか、「あの人は俳句の理解のない人ですよ」とか言って、俳句を作る人に対しても作らぬ人に対しても、また俳句の上手下手にかかわらず、俳句の理解のあるなしによって、まずその人を見ていられるように思われる。』
北大路翼は、北大路翼も、私に対して、俳句を作る作らないに関係なく、上手下手に関係なく、俳句の理解のあるなしによって、高浜虚子と同じような目線で見てくれた。
そして、翼と虚子について書くよう頼んでくれた。
全てが平等なのである。
この人は俳句を作らないから、作ったとしても下手だから、なんて目で見ていない。
ちゃんと私の考える思想に関心を持って耳を傾けてくれた。
実際、北大路翼のまわりには彼の人柄や俳句の才に憧れたくさんの人が集まってくる。
俳句を全く詠んだことのない人に対しても、わかりやすい助言をしたり、ほんの少し句をいじっただけで見違えるような句にして驚かせたり、全く垣根がないのだ。
この事実から、赤星水竹居が高浜虚子を表した文章はそのまま北大路翼に当てはまる。
なによりも北大路翼も高浜虚子も俳句を愛しているのである。
俳句への己の愛を通して広く俳句が普及するよう、人々を見る目がやさしさに満ち時には厳しく静かに愛に溢れているのだ。
それによって、北大路翼も高浜虚子も俳句を何も知らない私に俳句の楽しさを教えてくれた。
私は深く北大路翼の人となりを知らない。
けれども遠いところからだって、しっかり見えてくる景色はある。
北大路翼が俳句に向かう姿勢はどこまでも誠実だ。
私はただそれだけを見てきた。
道を歩き見たものを感じた気持ちを延々とTwitterで詠み続ける姿、すべてを俳句にしてしまう力、俳句にする力、俳句に向かう姿、地味な発見を飾らず壊さず語りかけるように伝えてくれる俳句の技術、「え?同じ人が作ったの?」と驚くほどの豊かな俳句の表現、豊かな俳句の幅、言葉を知り尽くした者の洗練された言葉の選び、自分以外の他者への愛情に溢れた、心で思い浮かべた相手に送る慈愛に満ちた挨拶句。相手に対しての喜びも悲しみも祝福も俳句で表現する力。
以上をもってして、北大路翼と高浜虚子は同じである。
北大路翼を高浜虚子よりも前にさせていただいたのは、天使の涎でも度々出てきた今まで誰も詠んだことのないような東京の雑然とした雑多な歌舞伎町の風景や、人々が見つめつつも敬遠するようなナンセンスや心の闇の部分を積極的に俳句にし、元来の俳句とはこうあるべきものというイメージを払拭させ風光明媚な俳句というものに新たなイメージを加えたこと。どんな景色でも心情でも俳句にし続けこれからも変わらず俳句の可能性を広げていこうとする姿勢、どのような時も俳句の形に忠実であり続ける姿勢。
歌舞伎町の風景を好んで詠もうが、自然の美しさや営み、人が人を想う心の機微を捉える力を同時に持ち合わせているということ。
そこに俳句の未来に希望を込めて翼と虚子とさせてもらいました。
高浜虚子は高浜虚子でしかないし、
北大路翼も北大路翼でしかないその中で、
ここまで北大路翼の中に高浜虚子を見ました。
翼と虚子。
心から敬意を表して。







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