名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (8)
今井 聖
「街」102号より転載
アマリリスまでフリージアの香りかな
高野素十『初鴉』(1947)
なんだこりゃ。
アマリリスマデフリージアノカオリカナ
いやあ、こりゃまいったな。
さすが即物派の鬼。俳壇あげての大ブーイングで些末派(トリヴィアル)との蔑称(英語ではトリヴィアルはれっきとした蔑称)をもらったあの有名な、
甘草の芽のとび〳〵のひとならび
と「写生」の角度は同じに見える。
虚子先生によく見ろと言われているのでよく見るのです、というところがものすごく素敵でヘン。しかもこの人、東京帝大医学部出て新潟大の学長までなさった超インテリ。そのインテリがこんな小学生のような句をつくる。昨今のジュニアの句の方がよほどあざとい。ものごとに徹するとここまで行くんだな。今でいう完全にイッテル句である。
この句、素十らしさが出ていて昔から大好きだった。
そもそも虚子の提唱した「客観写生」は途中から「花鳥諷詠」というマニフェストに変わっている。変更した動機の中心には素十の出現があったというのが僕の推測。
よく見なさい、とにかくじっと見なさいと言われ、その通り実践したあげく「もの」にまつわる従来の情緒、例えば「わび」「さび」などそれまでの俳句的情緒の一般性まで削ぎおとしてしまう。
漂へる手袋のある運河かな 素十
なんかが出てくるとどこかで新興俳句のモダニズムとの接点が出てくる。
おい、おい、ちょっと待てよ。俺は確かに「もの」をよく見ろとは言ったよ。言ったけど、「もの」ならなんでもかんでもいいってわけじゃないだろ、君ィ。
というので虚子は慌てて「花鳥諷詠」を持ち出した。もう「客観写生」は捨てざるを得なかったのだ。
花鳥諷詠になると「情緒」の問題を設定できる。花鳥という概念は「わび」や「さび」の日本的なる情緒の上に立っている。それでこそ大衆性を獲得できると虚子は踏んだのだ。「客観写生」で「もの」そのものに収斂していくとどんどん尖鋭的、前衛的に行きかねない。
蛇笏、水巴、普羅、石鼎などの獅子身中の「主観」派をびびらすために原田濱人をスケープゴートにして「客観」を奉じた虚子は、ここでまたマイナーチェンジを計ることになる。(スケープゴート原田濱人の悲劇の顛末については週刊俳句245号に登場した「奇人怪人俳人(七)恋多きカリスマ・原田喬」を参照いただきたい)
ところでこの句の内容、最初、僕は簡単な読みだと思っていた。
フリージアが咲いていた。しばらく歩くとこんどはアマリリスが咲いていた。アマリリスの咲いている場所まではフリージアの芳香圏。そして次はアマリリスの圏内に入ると。
僕の解釈の根っこには素十の、
歩み来し人麦踏をはじめけり
づか〴〵と来て踊子にさゝやける
があった。両者とも直線的な動きの中での動作の「変化」を言っている。この句もそういう動きの中での視覚や嗅覚の変化だと思ったのだった。
ところがどうも僕の鑑賞は間違っていたようだ。
フリージアは芳香があるが、アマリリスはほとんど匂いの無い花だ。視覚(視界)の変化はともかく嗅覚は変化しない。そうか、この句は眼前のアマリリス「までも」フリージアの香りがするという句なのか。
この句の意味を僕が取り違えた原因の一つは僕の花の匂いについての無知。二つ目は先述の素十俳句の直線性を当てはめたこと。
三つ目は「までも」という意味を「まで」で済ませるこの句の表現の口語性である。「かな」で締める古格の句に口語性は似合わぬところである。素十はしかし「までも」は使えない。使うと今度は定型軽視と思われかねない。しかも「かな」の句に字余りは避けたい。
作者の視野にはアマリリスがあるのに、嗅覚はフリージアを感じ取っている。フリージアは視覚的焦点の中には入っていないが、そこを歩いてきたという経緯は感じられる。
季語が二つあり、長いカタカナ語が二つ入っている。両者とも今頃の俳句の「先生」はタブーとして教えているだろう。僕の最初の思い込みは修正することとなったがこの句に対する僕の評価は変わらない。
単純化。「もの」で攻める。五感を動員する。「写生」の本義がここに在る。従来の俳句的情緒優先の「諷詠」とははっきり一線を画する。
なんだこりゃこそ学びの宝庫。
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