2015-07-05

【八田木枯の一句】昼寝より覚めしところが現住所 角谷昌子

【八田木枯の一句】
昼寝より覚めしところが現住所

角谷昌子


昼寝より覚めしところが現住所  八田木枯

第五句集『夜さり』(2004年)。

短い眠りである〈昼寝〉から、誰でもすぐに思い出すのは、道教の始祖である荘子の「胡蝶の夢」の説話であろう。夢の中で胡蝶となってひらひらと舞いながら辺りを廻っていたが、目覚めてみると、自分は蝶になった夢を見ていたのか、それとも今の自分が蝶の夢そのものなのかと迷う話だ。

荘子の説く「無為自然」とは固定観念に束縛されない自由闊達な自然と融和する境地のこと。自在に舞う胡蝶に荘子は人智を超えたこころの解放を見ている。

荘子の「超越」とはなにものにも拘束されない自由な生活をもち、人間の生と死の怖れからの超克を目指す。荘子は人生と宇宙いっさいを高らかに哄笑する諧謔精神を抱く哲学者でもある。

次に〈昼寝〉の句からよみがえったのが、中国故事の「邯鄲の枕」だ。「邯鄲の夢」「黄粱一炊の夢」「盧生の夢」としてもよく知られている。盧生という若者が、官吏登用試験に失敗し、人生の目標を失って趙の首都邯鄲に赴き、道士の呂翁と出会う。呂翁から夢が叶うという枕を渡され、眠ってみたところ、立身出世、栄耀栄華を極めることができた。ところがいざ夢から覚めると、粟粥(黄粱)がまだ煮えないほどの束の間のことだった。人間の栄枯盛衰の儚さを表すたとえである。

木枯がこの句を作った時、「胡蝶の夢」「邯鄲の枕」どちらも頭にあったろう。だが教訓としての「邯鄲の枕」よりも荘子の思想のほうが木枯の心を捉えたに違いない。

〈昼寝より覚めしところが現住所〉では、ほんの短い〈昼寝〉の間、たましいは身体から抜け出し、自由気ままに好きなところを浮遊していた。たましいは胡蝶のように軽々と、梢をくぐり、蜘蛛の巣を巧みにかわし、風に乗りながら川を越え、流れゆく雲と明るい水平線を眺める。たましいはいっさいから解放され、ただひたすら憧れを求めて遊行して廻る。やがてさまざまなものを見届けて再び身体に引き返してゆく。

はっと目が覚めた時、目の前になじみのある部屋の机や椅子、書架を見出したと描くのではなく、〈現住所〉とした。ここが木枯の面目躍如のところだ。〈現住所〉とは人間の所属する場所であり即物的なしがらみの多い居住地だ。ここにたましいは無慈悲にも引き戻されてしまった。

眠りとは生と死の境界にある儀式のようなもの。太陽が沈み暗黒が訪れれば、眠りに誘われ、翌朝、朝日が差すまで、死の世界に最も近い状態にある。目覚めた時は再生の光を見る。たくさんの生きものが、毎日、死と再生を繰り返している。

光溢れる昼に眠ることは、気楽そうでいて、かえって生と死の境界を冒す危険な行為かもしれない。束の間の仮死状態が〈昼寝〉とすれば、無事に生きているまま目覚める安堵も大きかろう。煩わしいことのたくさんある〈現住所〉という代表的な俗世も、なかなか捨てがたいものなのだ。


 

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