セックスと森と、カール・マルクス。
柳本々々を読む
小津夜景
1
柳本々々の作品を読んでいると、ごくたまに「森」という語に出会うことがある。そして現在のところ、この語はたいへんあからさまに「性」(特に、性交ないし女性器)を意味している。
ひゅううんと結婚と森とひゅんひゅうん
森林にひだがあるとか本気かと
しんりん、とくちびるがいう性的に
一句目は、飛ぶことを介して性愛の高揚を描いたもの。どこか夢の出来事にも似た、別世界の霊力に満たされたかのようなひとこまだ。また他の句でも、シュールレアリスム風に性を扱うにあたり「森」がそのシンボルとして駆り出されている。
それはそうと、なぜ「森」なのか? 単純な理由だったらいくらでも思いつきそうだ。たとえば「森」は仄暗く、湿り気がある。葉が生い茂って、実際に入る以外にその奥を確かめることができない。たまにそこで宗教的秘儀さながらのトランス・コンタクトが行われる。またそのコンタクトにはどこか崇高な快楽を伴う。さらにそこは知れば知るほど、言語に回収できない迷宮性を帯びる、などなど。
そういえば、柳本がひそかに繰り返している主題のひとつに「森のくまさん問題」というのもあって、これは柳本の読者にしてみたら当然の話かも知れないのだけれど、実をいうと私はなにゆえ柳本が童謡「森のくまさん」について言及を重ねるのか長い間よくわかっていなかった。それがある時とつぜん「森」がセックスの比喩だと悟り、そこでやっと「なるほど『森のくまさん問題』というのは、こっそり性交を匂わせつつ、くまさんとお嬢さんとが繰りひろげるコミュニケーション・マターだったのか!」と思い至ったのである。
「森のくまさん」の歌詞というのは、形式的にも内容的にもめっぽう完成度が高い。熊は逃げなさいと言いつつ少女を追いかけてくる。少女は逃げながらも追いかけてくる熊を待っている。それというのも、貝殻のイヤリング、すなわちおのれの分身(貝&耳輪なので、やはり女性器だろう)を忘れてきたから。最後は貝殻のイヤリングを返してもらい「ラララララ」と歌をうたっておしまい。殊に、ラスト一連にみなぎる異様な高まりには「ひゅううんと結婚と森とひゅんひゅうん」とまったく同じ匂いの狂気が感じられる。
あるひもりのなか/くまさんにであった
はなさくもりのみち/くまさんにであった
くまさんのいうことにゃ/おじょうさんおにげなさい
スタコラサッサッサのサ/スタコラサッサッサのサ
ところがくまさんが/あとからついてくる
トコトコトッコトッコト/トコトコトッコトッコト
おじょうさんおまちなさい/ちょっとおとしもの
しろいかいがらの/ちいさなイヤリング
あらくまさんありがとう/おれいにうたいましょう
ララララララララ/ララララララララ
ララララララララ/ララララララララ
さあとことん解読してくれ……と、読者の前にその身を投げ出さんばかりの歌詞だ。これに対する柳本の考察は以下のとおり。
くまは少女を食べようとする一方で、お逃げなさい、という。くまの内面はあきらかに分裂している。わたしたちはここで一匹の動物の恋愛論をまのあたりにしている。恋愛とは、おそらくは恋愛対象を身体的・精神的に侵食していくその一方で、逃走させていくこころみでもあるだろう。恋愛とは矛盾であり、両義なのだ。わたしが生きるためにわたしはあなたを食べるだろう。しかし、あなたが生きるためにわたしはあなたを逃がすだろう。(中略)それにしても、逃げろといわれたにも関わらず、わざわざ落とし物をしていく少女の恋愛論はどうなるのだろう。おそらくは、こうだ。恋愛とは、無意識領域におけるゲームである。〔*1〕
浸食と逃走、矛盾かつ両義、無意識領域におけるゲーム——以上が柳本の分析である。コミュニケーションをかんがえる時はその文脈の規定が必須なので、当然この分析は、熊と少女との恋の駆け引きが「森」という性的現場で行われていることを念頭に置いてのものだろう。
森の中くまさんとだけ出逢えない
トレンチを着込んだ森のクマさんが「お逃げなさい」と抱きしめる夜
こうした作品は、浸食と逃走、矛盾かつ両義、無意識におけるゲーム、といった先の分析をありのままに反映している。また「森」が性愛の甘美および危機の舞台として機能していることも捉えやすい。こうかんがえてゆくと、柳本における「森=性」の図式とは、森林のもつれあう枝葉が必ずやわたしの心を絡めとるであろう予感と、その枝葉をわたしが御することの不可能とを同時に想像させるための見立てだったのだ、と定義できそうである。
2
ところで、柳本の作品で性を担うのは、実は「森」だけではない。「マルクス」とか「カラマーゾフ」なども立派な性のメタファーになる。なぜそんな恐ろしいことになってしまうのかというと、どうやら髭がポイントらしい。
マルクス——まるで森そのもののような風貌の人。もはや歩く森だと言いたいくらい。ちなみにカラマーゾフの方は、ドストエフスキーの小説のこんがらがった雰囲気と、カラマーゾフという名前の文字どおり「からまったぞ感」とが柳本をして「森」を妄想せしめるようだ。またカラマーゾフはその音だけでなく、実際こんな風にもからまる。もちろん髭で。
(ガジュマルの樹と化したカラマーゾフの兄弟〔*2〕)
さて。このようなマルクスやカラマーゾフが登場しつつ、ひそかに髭=森=性の役割を担ったテクストとして、さいきん柳本は「マルクスだいすき」という詩を発表した〔*3〕。これは、つまるところ「セックスだいすき」という趣意なのだけれども、とても繊細なコノテーションをもった、まるで性カウンセリングのごとき芳香の作品に仕上がっている。
テクストは、はじめに性への恐れを告白する短歌が置かれたあと、詩のパートに移り、またさいごに短歌が来るといったつくりになっている。少し、読んでみよう。
マルクスだいすき 柳本々々
1
マルクスとふたりで乗った観覧車ふるえる右手、そっとつかんだ
2
わたしたちの遊びはいつもマルクスのひげのなかに手をいれることだった
3
長い廊下をあるいていって、つきあたりを右に曲がると、壊れかけのロッカーのよこにマルクスが体育すわりでぐったりとしている
3・1
そのマルクスのひげのなかにてをいれてかえってくる
私がまず興味をひかれたのは、マルクスが森、すなわち恋人たちの性愛の舞台となっていること。次に、女性器がマルクスの髭として外在化、かつアニマロイド化〔*4〕していること。さらに、この女性器の外在化によって、本来なら「わたし」が「かのじょ」に向けて遂行するはずの〈相手を食べようとしつつ同時に逃がそうとする〉シナリオ、すなわち〈浸食と逃走の恋愛ゲーム〉がこっそり回避されていること、の三点である。
女性器の外在化は「森のくまさん」でも見られた構図だ。あちらの少女は熊に惹かれるがゆえに、イヤリングに化けた女性器を「うっかり」落として逃げた。そして自分の気づかぬうちに処女喪失が終えられることを期待した。こうした手順の背景には、少女のたいへんシンプルな性への恐れが見え隠れしている。
一方「マルクスだいすき」の「わたし」は「かのじょ」に対しいかなる暴力(浸食)も命令(逃走)も加えない。その代わり、二人一緒に、なんどもマルクスという「森」の中へあそびにゆく。そして「かのじょ」がみずからマルクスの髭と戯れるのを観察し、その感触について質問し、彼女が自己の性を見定め、受け入れるプロセスをじっと見守るのである。
4
わたしはかのじょのようにふかくてをいれたことはないが、かのじょはてをふかくながいじかんをかけていれていたことがある
4・1
かのじょはそのときマルクスとすこしのあいだみつめあっていた
4・2
よかったの、ときくと、よかったという
4・3
意思疎通ができていたんじゃないかとかのじょはいう
4・4
そのときはじめてマルクスのくちびるやにのうでをしげしげとみることができた
4・5
それにマルクスはすこしおびえていたようだった
このように、マルクスをより深くさぐり、またかんがえようとするのは「かのじょ」の側だ。たぶんマルクスの中心が、彼女自身の可能性と不可能性の中心だということを無意識に知っているがゆえに。またこうした「わたしたちのあそび」がスムーズにゆくよう、マルクスの〈森としてのポテンシャル〉が入念に去勢されている点も、けっして見のがせない。
6
マルクスはまだぐったりとしている
6・1
わたしはときどきマルクスのところにいってマルクスにくだものややさいやなまにくをほおばらせたりしている
6・2
だいすき
おびえつつ(4・5)、ぐったりとして(3、6)、 自分だけでは食事もままならず(6・1)、あたかも根を失った木のように腐ってしまう(9)マルクス。こうしたマルクスの弱体化は、「森」に潜在する力に「わたしたち」が足をすくわれないようにとの作者の配慮にちがいない。
もっともマルクスを弱体化しても、このテクストにはまだ別の「森」がひそんでいる。あのカラマーゾフのことだ。
5
ひげの奥はどうだったのとわたしが思い切ってきいてみるとかのじょはわらってごまかしてしまう
5・1
エメラルドグリーンの矯正器具がみえる
5・2
わたしの姉とおなじめをしている
5・3
姉「あなたのなかにもカラマーゾフがいるのね」
「かのじょ」は笑う。すると矯正具が見える。きっと「しんりん」と呟いたことのある、そのくちびるのあいだから。
女性器に嵌められた、教育・調教・馴致のための拘束具。多分、これは貞操帯の役割を果たす器具なのだろう。またエメラルドグリーンといった強い聖性を放つ色は、いわゆる護身石同様、大切な場所に他者をよせつけないための表徴のように感じられる。ここから読みとれるのは「かのじょ」は外在化した女性器には触れることができるものの、みずからの性にはいまだ枷をはめた状態である、ということだ。片や「わたし」はそんな「かのじょ」を見つめているうちに「姉」を見ている気分になり、かつその姉から〈わたしの中に生い茂るカラマーゾフ〉を指摘される。すなわち「森」としてのポテンシャルと、性愛をめぐる〈浸食と逃走〉の欲望とを見抜かれてしまうのである。
「マルクスだいすき」における最も重要なシーンは、まちがいなくこの個所である。実際、このシーンがどのように存在するか(あるいは存在しないか)で、作品の奥行きもその緊張の度合いもがらりと変わってしまっていたはずだ。そこを柳本は、スライドする人物像、虚をつかれるセリフの内容、触感あふれる行間のモンタージュといった操作によって、いずれも隙なく、ゆっくりと着実に切り替わる映像のごとく展開しえている。それにしても、貞操帯をはめた肉親のくちびるから「あなたはわたしを食べようとしているでしょう?」と語りかけられるとは、なんと不気味な主体の〈危機〉なのだろう。
この〈危機〉を経た後、柳本は、森=性が「わたしたち」のあいだで〈食らうこと、逃すこと〉ではなく〈繋がること・結びつくこと〉として共有されるよう、この詩をそっと仕向けてゆく。かくして「わたしたち」はプール通いを始め、水の中で、お互いの筋肉をひと夏かけてじっくりと揉み合うのだ。この、水中でのメンタルケアとでも呼びたくなる描写に込められた、あまりにデリケートなやさしさ。
7
次のマルクスはもうこの町内に引っ越してきているという
8
わたしとかのじょはこの夏、プールにかよいつづけた
8・1
おたがいの筋肉をさわりあっているうちにわたしとかのじょはマルクスを共有できたようなきもちになっている
8・2
もうすこしさわってねといわれる
9
真夜中にほとんど腐ってしまっているマルクスのもとにいく
9・1
「きんにくのふしぎ」という詩を書くよ、とわたしはマルクスにいった
9・2
マルクスのひげが弾力をもってぴくぴくする
9・21
マルクスだいすき
次のマルクスがやって来ている。一方「わたしたち」のマルクスはまもなく朽ち果てるだろう。マルクスだいすき。そしてこの詩はこんな短歌でおしまいになる。
10
マルクスの渦巻くひげにてをいれた少女が貰う勇気の貨幣
森=性としてのマルクスは、魔法をとかれたかのように消滅した。一方「かのじょ」はといえば、自分の性器を、勇気と共に手に入れ直したらしい。もう「かのじょ」は、いや「わたしたち」は観覧車どころか、なにもない場所を高く飛翔することさえ恐れないだろう。
以上がこの詩の全貌だ。ここで辿られた性のお話は、とてもシンプルかつ普遍的なもの。にもかかわらず柳本のこまやかな描きぶりは、性愛というどこにでもあるものを、少しもステレオタイプな存念に落とし込まなかった。それどころかこの詩は、男性も女性もふだんは語ることを忘れてしまっている、素朴なヨガのごとき性愛術への啓きをさえ感じさせる。「森」という、とてもふしぎな性愛の世界。「マルクスだいすき」は、すぐれた構想力と構成力とによって綴られているばかりでなく、人の尊厳に対する、柳本の深い思いやりと洞察力とにあふれた作品でもあるのだ。
【註】
〔*1〕青空のなんと青かったことか
〔*2〕カラマーゾフの兄弟(髭的な意味で)。
〔*4〕ふだん柳本がたずさわる川柳とアニマロイド(獣人)との関係についてはこちらを参照。
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