自由律俳句を読む 125
「鉄塊」を読む〔11〕
畠 働猫
本日はバレンタインデーですね。
さて今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を粛々と鑑賞する。
今回は第十二回(2013年4月)から。
◎第十二回鍛錬句会(2013年4月)より
小さな手のまま老いる 小笠原玉虫
自分の手であろうか。そう読みたい。
幼いころの記憶の中で、繋いでくれた大人の手は大きかったように思う。
今、自分自身が年を取り、大人(あるいは老人)となった。その手は、あの頃頼りにしていた大人たちのように大きくはならなかった。
ここで「手」が象徴するものは、成し遂げる力、守る力、つかみ取る力であろうか。
啄木が「ぢつと手を見る」と詠み、放哉が「爪切つたゆびが十本ある」と詠んだように、「手」は時に自分自身の人生そのものように思えるものだ。
ここでは同じように、作者が自らの人生の来し方行く末を思っている情景として読んだ。
有休とって芯まで腐っている 小笠原玉虫
自分もそうだが、作者は「休む」ことにどこか引け目を感じてしまうのだろう。
学校をずる休みした日のような罪悪感を覚えてしまい、結局心身とも休めないまま休暇が終わることになる。
休暇は当然の権利であり、休むときには休むべきである。
しかしそれは建前であって、実際にはそんなに簡単に割り切れるものではない。
職種や職場の雰囲気にもよるのだろうが、ギリギリの人数で仕事を回しているようなところでは、自分が休めば、その分が同僚の負担増になる。逆の立場を経験すれば、なおさら自分は休みにくくなるものだ。
日本人は働きすぎだ、社畜だなんだと、「一生懸命働くこと」をさも愚かであると言うような手合いがいるが、うるせえ、誰かがやらないと仕事は終わらないんだ馬鹿野郎。
そのようにして、尻の病を悪化させて入院することになったりするのだから、やっぱり休むときは休まないとだめだね。そして休むことがストレスになるような職場は滅びなくてはいけない。
花叩く雨を聴く夜更かしして何かを待ってる 小笠原玉虫
実に繊細で抒情的な情景を切り取っているが、語りすぎに思う。
少なくとも「何かを待ってる」は言ってはいけないのではないか。それは読者が感じ取ることであり、「言い仰せて」しまうことになる。
高野公彦は定型を「内容の濾過装置としてのはたらきをする」(「定型があってこそおもしろい」)と述べている。
自由律においては、その濾過装置を自らの中に用意しなくてはならない。
その装置の形状は人それぞれである。
それにも関わらず、「濾過したか否か」はきちんとわかるのであるから、この辺りにも名句の条件・メソッドが隠されているように思う。
ラジオからエルビス・コステロ流れあの夜の少し寒かった月のことなど 渋谷知宏
嗅覚、匂いほどではないかもしれないが、音楽もまた記憶を生々しく思いださせるものである。
曲は「She」であろうか。映画「ノッティングヒルの恋人」は見ていないのだが、この曲は好きだ。
思い出深い曲なのだろう。今はそばにいない人と一緒に映画を見に行った記憶が、フラッシュバックのようによみがえるのか。
固有名詞であるが、「エルビス・コステロ」はやや冗長。「コステロ」でよかったのではないか。
椿の底のドス黒い 渋谷知宏
美しいものの影に暗さ、陰りがあることはほとんど当然のことであり、この発見は新鮮とは言えない。また、「ドス黒い」という語感の重さが、椿の花の重さとイメージが重なり、意外性も無くなってしまっている。
月並みか。
春空からハト降りてきて何か食う 渋谷知宏
以下は当時の私の句評。
「我々には無価値なものがハトにとっては生命をつなぐ糧となる。悲しいことに無価値なものは目にさえ映らないのだ。けなげなハトに知らされる春の一幕であったのだろう。」
当時の句評は固すぎる。病んでいたのか。
「あ、ハト」「なんか食ってる」
ぐらいの句だったのではないか。
これも公園のベンチ句だろう。キアヌ・リーブスで想像した。
終日カレーの工夫を考えのたりのたり 白川玄齋
以下は当時の私の句評。
「『しゅうじつ』と読むほうがリズムがいい気がするが、『のたりのたり』なのだから『ひねもす』と読むべきなのだろう。でもそうするとリズムが悪い。読みにくい気がする。春の海のようなカレーを煮ているのかと思うが、どうにも『もっさり感』がある。『工夫』と『考え』はどちらかでよいように思う。もっとテンポよくできる気がする。カレーはおいしいから好き。」
先日、近所の新しくできた出前専門のカレー屋のチラシがポスティングされていたので、さっそく注文してみた。届いたカレーはただただしょっぱく黒いものであり、辛さも何もあったものではなかった。店主の味覚障害を疑うレベルであり、生意気にライスとカレーが別容器で届いたところも今にして思うと腹が立つ。
カレーの定義は人それぞれであろうが、自分にとってカレーはおいしいことが第一条件である。カレー屋を標榜するのであれば、終日カレーの工夫を考えるべきであろう。
不自由な手でゲームをしている一室 白川玄齋
病室であろうか。入院中は暇をつぶすことが毎日の課題であった。
仕事も持ち込んでいたがほとんど消化できなかった。仕事は暇つぶしにはならないものだ。私の不自由な部位は尻であったが。
腕前のいい人を呼び止める採血室 白川玄齋
老人の川柳のようだ。
ただ、少しでもストレスを減らそうとする気持ちはわかる。
やすい肌に埋ずまる 天坂寝覚
風俗句であろうか。写真よりもふくよかな方だったのだろう。
後は土になる花があかい 天坂寝覚
以下は当時の私の句評。
「椿であろうか。散り落ちた花の刹那の美しさをよく描写したと思います。いずれは朽ちていく花がただただ赤く在る。それを冷徹で無感動ともとれるような目で見つめている。その目が見つめるのは、滅びゆくものの美しさか、それとも大いなる循環の始まりなのか。」
この句については、すでに以下の記事で触れた。
寝覚句の中でも佳句と思う。
自由律俳句を読む 102「天坂寝覚」を読む〔2〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/07/1022.html
桜つもる道の犬が小便している 天坂寝覚
以下は当時の私の句評。
「幻想的とも言える情景をよく現実に繋ぎとめてくれたものである。犬とはこういうものだ。『何のおまつりかは関係ない犬がきた』(渋谷 知宏)と同じテーマであって犬のしょうもなさがよい。」
私は別に犬に悪感情はなく、むしろ好きです。わんわんお。
打ち込めろーッ、木版! 想い込めーッ、全発! 中筋祖啓
これも労働句なのだろうか。何の仕事かはわからないが、とにかく勢いをつけてやらなくてはいけない仕事なのだろう。
いい国つくろう おはよう幕府 中筋祖啓
面白い。好き。
忠犬がリーダーシップを乗っ取った 中筋祖啓
素っ頓狂な状況が目に見えるようである。
単に犬に引きずられるように散歩している姿なのかもしれないし、もっと複雑な事情、物語があるのかもしれない。
夢の王蟲の眼の赤い 馬場古戸暢
怒っているわけだ。
王蟲の形状は夢判断的には男根の象徴であろうし、性的な不安・苦しみ・呵責が表れているのかもしれませんね。
合わせ鏡の中の俺幾千 馬場古戸暢
以下は当時の私の句評。
「今日も元気にナルシスティックって感じですね。全裸でポーズを決めているのだろう。」
当時の私の頭に浮かんだのはジュウシマツ和尚のアスキーアートであった。
山の腹も菜の花 馬場古戸暢
美しい句。春らしい遠景をとらえている。
先週紹介した句(つまりこの前の月の句)に「菜の花の天麩羅を塩でいただく春をいただく(馬場古戸暢)」があり、作者の菜の花への関心の高さが表れている。
おひたしもおいしいですよね。
さあ空ださあ雲ださあ俺だ 藤井雪兎
この句はこの句会における最高得点句であった。
自分はポジティブなものが苦手なので取るに至らなかった。
今改めて見るとリズムの良さに騙されがちだが、ただ単に能天気な男のポジティブ句ではないように思える。
視点の移動を追ってみる。「さあ空だ」では、まず空を見上げている。その視界に「さあ雲だ」で雲が入ってくる。これは暗雲ではないか。そして「さあ俺だ」では自分の姿をどこに見ているのか。うつむいた先の地面の水たまりに映っているのではないか。
そのように見ると、この場面は長雨の合間にほんの一瞬覗いた晴れ間。
やっと覗いた空に希望の光を感じている。しかしすぐに近づいている雨雲を見つけてしまう。うつむけば水たまりに映る自分の姿。
うまくいかない人生のメタファーのようでもあるし、それでも前向きに進もうという痩せ我慢のようでもある。
そのように自分のネガティブさに引き寄せて読めば、時代劇で見る賭場の掛け声のような「さあさあさあ」のやけっぱち感も好ましいものだ。
ひかりのなかでおもいだすひかり 藤井雪兎
フラッシュバックであろうか。
なんとなく、まえの「ひかり」は、プールサイドのやわらかな光を思った。その陽だまりの中で思い出すのは同じあたたかな光だったろうか。それとも忘れたい幸福だった頃の記憶か。
この句は当時の句会では逆選が2票入っていた。自分は割と好きな句である。
幸福な思い出や光の記憶は時に自らを蝕む毒のように作用するものだ。
離婚届出してきた並玉子味噌汁 藤井雪兎
他人の離婚や不倫に関係者以外はとやかく言うべきではない、と私は思う。
あ、ベッキーのことは関係なかった。
この句はリズムの良さも相まって、実に爽快感がよく表現されているように思う。食事も管理されて牛丼も自由に食べられない生活だったのかもしれない。解放感がある。
雪とけて秋の残骸 本間鴨芹
雪解けとともに、その下に封じられていた落ち葉が現れる。
もしかすると雪国の生活経験がなければ共感しにくい情景かもしれない。
春になると雪の下からいろいろ現れる。
春は、真っ白な雪が覆い隠してしまった過去が暴かれる季節なのである。
春はぎこちない教科書 本間鴨芹
小学校や中学校のころのことを思いだす。
あるいはそうした年齢の子供を見ているのだろうか。
新しい教科書は硬くて開きづらいものだった。
今でも憶えている。小学1年生の国語の教科書の一番最初の記述は「あおいそら きこえる とりのこえ」だった。
緩んでる送電線くぐって今日も仕事だ 本間鴨芹
現在の職に就くまでは、日雇いでいろいろな現場に行った。この句も当時を思い出し共感できる労働句である。
このあとは朝会だ。職長から安全についての注意、ラジオ体操。そして昼には弁当屋のおばさんが来る。この話は以前したね。
とにかくそのなんというか同じような毎日がずっと続いていくようなある種のユートピア感が、現場にはあるね。
薄荷飴なめながら金借りる相談 松田畦道
この不誠実な感じがたまらなくよい。
いやな顔まで見えてきそうだ。
金のない男たちが集まって金策をしているのだろう。BGMはウルフルズか。
哀しい名の恐竜がソファの下から 松田畦道
以下は当時の私の句評。
「エロマンガサウルスかなと思った。しかし「恐竜」を「過去のもの」の比喩として考えてみると、途端に句意が広がった。一人で発見したなら記憶に浸れたことだろうが、二人のときに出てきたなら争いの種になるのかもしれない。」
最後通牒みたいに満開 松田畦道
非常に美しい句。
春が怒涛のように押し寄せてくる様子がよく表れている。
「最後通牒」という語からは、春をどこか恐れている気持ちが読み取れる。新しい生活や人間関係への不安。繰り返される季節への倦怠感。
あるいは、在原業平の歌と同様に、咲き誇る桜への複雑な心情が詠まれているのかもしれない。満開になってしまった桜はもう散り落ちるばかりである。その桜の終わりを悲しく、寂しく、「最後通牒」と表現したのか。
「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
今年こそ花見に行こう(=円山公園で焼き肉をしよう)と思いました。
* * *
以下三句がこの回の私の投句。
膿み月に千鳥足がゆく 畠働猫
際限なく肌濡れてゆく五月闇 畠働猫
救いなど求めず生きて私を抱いて 畠働猫
この頃の句はえろっぽい気がする。私も不惑を迎え様々な面で枯れてきたのだろう。今はこういう句を詠まなくなったように思う。
句を作り始めて2年くらいで、それまで自分の中に蓄積されていたものはすべて出し切ってしまったように思う。
それまでの30数年間の人生の蓄積を2年ほどで表現し尽くしてしまったのだから、この期間の句にはその濃さ(えぐみ)がある。
この先、句作を続けていくのであれば、その蓄積された過去をこれからの人生で超えていかなくてはならない。
それはかなり無理のあることであるが、考えてみれば句作を続けなくてはいけない理由など別にないのであった。
だから、気楽にやればいいのかな、とも思う。
次回は、「鉄塊」を読む〔12〕。
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