自由律俳句を読む 124
「鉄塊」を読む〔10〕
畠 働猫
本業の繁忙期に扁桃腺炎からのしつこい発熱が重なり、3週休ませていただきました。
皆様も体調にはお気をつけください。
さて、今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
今回は第十一回(2013年3月)から。
◎第十一回鍛錬句会(2013年3月)より
沈丁花香り始めた変わろう先ず前髪を切る 小笠原玉虫
当時の句会でも感じたことだが、「変わろう」は余分である。
季節が春であり、「前髪を切る」という行為から「変わろうとする意志」は十分に伝わる。自身の内奥にある心情や感情を隠せずに溢れさせてしまう点は作者の特徴でもあるように思う。
「変わろう」を除いてみれば、「先ず」という表現が効果的で、変化の最初の一歩を踏み出すような、繊細で憂いを秘めた春らしい句となっている。
藤棚の蛇になりたい花房の影で君を狙って 小笠原玉虫
この句も少し語りすぎか。
「蛇になりたい」という感覚がおもしろい。神話あるいは民話が下敷きになっているのだろうか。物語を感じさせる。
明日履く靴下もなく二月尽く 小笠原玉虫
靴下のない状況というのがちょっとわからない。
洗濯する余裕もない生活であったのか。しかし今時コンビニでも靴下くらい買える時代だ。何か特別な事情があるように思う。
失意、悲しみの中にあり、洗濯どころか一切身体が動かせない状況であったのか。特に抑うつ的状態のときには、外出が大きな負担となるものだ。「服を買いに行く服がない」とはネットで見かけるスラングの一つだが、ここでの「靴下」も外出できないことの言い訳(合理化)であるのかもしれない。
君と僕しか知らない炬燵の下である 渋谷知宏
これはいやらしくてよいですね。
昭和のエロスであるな。
そもそも金もないのに出てきた日も暮れて 渋谷知宏
当時の自分の句評。
「何がそもそもだ。と出会った友人は苦笑しながら一杯おごってくれるのだろう。あるいは誰にも出会えず、ただ春の夜を歩き疲れるまでさまようのか。いずれにしてもその後の物語がある。『そもそも』も便利ワードかもしれない。もうこれ以降は使わないように封印すべきだ。」
「そもそも」は確かに物語性を加えるのに便利な言葉である。語感もおもしろい。
黴匂う本屋にいてしずかな 渋谷知宏
古書店であろうか。学生時代はよく古本屋に行った。今はそんな時間もない。どこかで人生を間違えてしまったのかもしれない。
酔った勢いでも出てこない言葉 白川玄齋
愛の告白であろうか。
十年後に完成するはずの廃墟 白川玄齋
当時はサグラダファミリアを想起したのだが、今だと新国立競技場だろうか。
実際には、建設が途中で中止になってしまったホテルやテーマパークのことを詠んだものと思う。北海道にもそうした廃墟スポットが多数あるようだ。
廃墟は人の愚かさや悲しみ、歴史や時代を感じさせるものである。私も嫌いではないが、肝試しや馬鹿騒ぎのために訪れるようなことは所有者や近隣の住民の迷惑になるので慎んでもらいたい。
柔肌以外もいろいろ知らず 白川玄齋
「知らない」ということは、これから知る喜びが得られるため幸せなことだと思う。ただそれは生きていてこそだ。
性の喜びだけでなく、例えば命を奪うことも、単なる体験に過ぎない。
繰り返されれば慣れていくものであり、そうして特別な意味は失われていく。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に対する一つの答えとして、「まだ殺していないからだ」ということもできる。慣れてしまえばそこに意味はなくなってしまう。「なぜ」と考えることもなくなってしまうだろう。慣れてしまわないためにそうしてはいけないのだ、と。
雨の傘がばたばた開かれる夜の出口 天坂寝覚
当時の自分の句評。
「『雨の』が必要なのかどうか。シーンとしてはかっこいい。アルパチーノかデニーロのギャング映画にあったような。ボスの邸宅内での葬儀が終わり帰っていく幹部たち。5部派なのでたまらない。」
一応断っておくが、「5部」はジョジョのことであり、5部派であることは今も変わらない。ブチャラティが好きです。
当時も今も思い浮かぶ映画の場面は、実はアルパチーノでもデニーロでもなく「ロードトゥパーディション」である。この映画は自分にとっては5本の指に入る作品なのだが、人に薦めてもいまいちピンとこないことが多い。思うに、父親を亡くした自分にとって、この映画はその関係を補完するものになったのであり、その意味で特別だったわけだ。それは万人に通じるものではなかった。
映画にせよ、俳句にせよ、特定の誰かにとって特別な作品というものは存在する。万人受けするものよりもそうした作品の方がかっこいいんじゃないかな。
少しつめたいからだ出てった春の朝はやく 天坂寝覚
当時の自分の句評。
「理由ととるか、物体ととるか。作者の冷たさが彼女を出て行かせたのか。自分を温めて冷たくなってしまった身体が出て行ったのか。おそらく両方である。こんなにも愛してくれる女性に対して十分な愛情を示すことができない。そうして無情な後朝を繰り返す。ハードボイルドでもある。ダメ男でもある。」
「からだ」を掛詞として解釈する。
当時は寝覚は自分と同じくもてる男だと思っていたが、のちにそうでもないことを知る。
星も見えてつまりトーキョーは東京という所 天坂寝覚
「トーキョー」は、地方に生まれ、物語や歌の中に表れるイメージとして受容してきた東京なのであろう。それが実際に住み過ごすことで東京を現実のものとして納得、再受容している。
「東京」という題がついた歌の歌詞は物悲しいものが多いように思う。そんなに悲しいなら札幌に来ればいいのに。いいところですよ。
呪い言一番最後に力が無い 中筋祖啓
呪いきれないということなのか。人を呪うということには想像以上にパワーがいるものである。丑の刻参りなんて準備段階で息切れしそうだ。殴った方が早い。
つぶ&マーガリンだよコッペパン 中筋祖啓
当時の句会での自分の句評
「確かにリズムは良い。しかしだから何だと言うのか。この句でいったい何を表現したいのか。私たちは何を感じとるべきなのか。確かにリズムは良い。その発見の喜びにはあふれている。嫌いではない。しかしだから何だと言うのか。しかも『生パスタ茄子とチーズのボロネーゼ』(ファミリーマート)が類句としてある、とか言ってみる。」
ダンシング一本松の逆光よ 中筋祖啓
「ダンシング一本松」は、今見るといいな、と思ってしまう。
生足増えて春はもうすぐ 馬場古戸暢
当時の自分の句評。
「都会ではこんなところに季節を見つけるのだ。俳人として正しい姿勢と言えるかもしれない。などと自分を正当化していやらしいところばっかり見ているのだろう。作者はすけべえな人だ。(人格攻撃である。)」
作者についてだが、間違ってはいなかった。
菜の花の天麩羅を塩でいただく春をいただく 馬場古戸暢
おいしいですよね。
大人にならないとおいしさがわからないものがある。
自分にとって、菜の花もその一つだった。
春風の寝湯に浮かぶ 馬場古戸暢
当時の自分の句評。
「いろんな球状のものが浮かんでいるのでしょうね。りんごとか檜玉とかだけでなく。」
トラックのラジオから元カノの歌声 藤井雪兎
背景が見えづらい。
映画か何かの一場面であろうか。
「トラック野郎」とか。
自分は興味を持ったことがないのだが、トラック好きな人って一定数いるね。
デコトラ。
事故車の隣で笑顔だ 藤井雪兎
以下当時の句会での私の句評。
「これはたまらない句だ。一瞬で情景と物語が広がる。やってしまったという照れ隠しの笑顔だろう。おそらく自損。おそらく怪我人はなかったのだろう。よかった。しかし、パトカーが来るまで、あるいはレッカー車が来るまで、運転手は好奇の目にさらされ続けることになる。てへぺろを使うならこんな場面がふさわしい。思う存分てへぺろでごまかして、帰ってから枕を濡らしてほしい。運転のへたくそな男は軽蔑され嘲笑されて然るべきなのだ。」
「てへぺろ」懐かしい。
抱きしめられ剃刀の落ちる 藤井雪兎
この回から鉄塊句会に参加している小笠原玉虫が、この句についてよく言及している。ここに女の情念や物語を読み取っているようだ。彼女の読みでは、剃刀はリストカットを想起させる、痛みや苦しみの象徴であるのかもしれない。
私の読みは少し違っていて、ここで抱きしめられているのはスケ番である。
指にカミソリ刃を挟んでいるタイプの武闘派スケ番である。顔はやばいよ、ボディーをやんな、ボディーをである。
70年代から80年代に青春時代を過ごした者にとって、そうしたキャラには馴染みが深い。長いスカート。つぶれたカバン。カミソリまたはチェーンが武器である。なぜかマスクをしている。(シンナーで歯が溶けているためかもしれない)
当時の漫画やドラマの場面でこの句のような情景を見ていたように思う。孤独から非行に走っていた少女が理解者に出会い愛を知るようになっていくというような。
また、この句においても雪兎の特徴的な視点が見られる。
作者は抱きしめている側でも抱きしめられている側でもなく、第三者としてその場面を見ているのである。
電話鳴るたび電話代お安くなる話 本間鴨芹
一時期こんなときがあった。うんざりするものだ。
auとNTTが交互に営業をかけてくる。
多少高かろうと、煩雑な手続きや作業がない方がいい。
八つ当たりがこの春定年迎えます 本間鴨芹
「八つ当たり」はあだ名か何かだろうか。
気に入らない上司であったが、いつかは「そんな人もいたね」と笑って話せる日が来るのだろう。春は別れの季節ですね。ご勇退おめでとうございます。
春らしいパンツの穿き心地が悪い 本間鴨芹
春のため腰回りがむずむずしているのだろうか。
パンツの履き心地に季節を感じるとは俳人の繊細さは底が知れないものだ。
少年ジャンプだけ束ねてある安アパートの灯り 松田畦道
貧乏さがよく表れている。「少年ジャンプ」も住人の文化度、教養の低さの表現としてよく効いている。私も学生時代には貧しい生活をしていたが、ジャンプを始めとした雑誌の購入だけは食事を抜いてもやめられなかった。今もそうだが、立ち読みというのができない。みっともないとも思うし、疲れるじゃないですか。
そこまで必死になって読むものじゃないだろう。買って帰って食事や排泄をしながら読みたいのだ。コンビニや本屋でいい大人が雑誌を真剣に立ち読みしているのを見ると大変不憫に思うし邪魔である。
さんざん悩ませた死顔が花に囲まれている 松田畦道
私自身、現在母親の介護をしていて、時に絶望的になったり、人生の不遇さ、不自由さを嘆いたりすることがある。そうした苦しみから解放されるのは、この句のように母が死んだときなのだろう。そう遠くない日であるとは思うが、そのときいったい何を思い、考えるのだろうか。今はまだ想像しないようにしている。
逆光です車種もナンバーも分かりませんでした 松田畦道
事情聴取を受けている場面であろうか。
当て逃げされて途方に暮れているのか。あるいは相手をかばっているようでもある。何らかの事情があるのであろう。ドラマを感じさせる句だ。
* * *
以下三句がこの回の私の投句。
雪が雨になって夜はこんなに暗かった 畠働猫
地球上にただひとり凍て咳の夜 畠働猫
キラキラネームで二十歳になった 畠働猫
「雪が雨になって~」は職場から帰宅中にできた句であり、当時の状況もよく憶えている。
仕事がら帰宅は夜中になることが多いが、その運転中が自分にとっては最も自然に句作ができる時間である。詠む人ごとにそうした時間があるのではないかと思う。それは世界観や句風に大きく影響していることだろう。
ある程度まとまった句群を見れば、その人にとっての句作タイムも見えてくるものだ。
次回は、「鉄塊」を読む〔11〕。
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