自由律俳句を読む 133
「鉄塊」を読む〔19〕
畠 働猫
今回の震災に際し被災された皆様へ心よりお見舞い申し上げます。
不安や悲しみから一刻も早く解放されますようお祈りするとともに、できる限りの支援をしていきたいと考えています。
今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第二十回(2014年1月)から。
この回は編集担当であった風呂山の招待という形で、本間鴨芹が再び鉄塊句会に参加している。ともに「海紅」の同人であるという縁もあったようだ。
文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。
◎第二十回(2014年1月)より
ふるえる手が描く辛うじてドラえもん 本間鴨芹
握らせて、なにか書いてみなさいと言ったのだろう。字を書くよりも絵を描く方がまだ易い。しかしその絵も辛うじてわかる程度だ。かつては得意だったのかもしれないと思うと余計に喪失感を覚える。(働猫)
脳梗塞後、半身麻痺と失語となった母親を介護しているので、それに重ねて読んだ。描かれている状況は沈鬱なものだが、「ドラえもん」がユーモラスな印象を与えており、介護するものとされるものの人間としての強さを感じさせる。
良句と思う。
でもしまむらで買ったんですという謙遜 本間鴨芹
△詠み手はそれをよしとしているのか、それともイラッとしているのか。(働猫)
だいたひかるのネタのように脳内で再生されて私はイラッとした。
タピオカ喉に詰まらせるこれが俺の正月 本間鴨芹
△もちでなくタピオカであるという、「俺のナウい正月自慢」であろうか。(働猫)
またはブラジル辺りで正月を過ごすことになった紀行句なのかもしれない。
老いた父の茶色い背中に初春のひかり 小笠原玉虫
△色彩のコントラストが効果的である。老いゆく者と新しく始まる年。穏やかな新年となりましたね。お父さんを大事にしてください。(働猫)
上記のように対比が効果的である。
「老いた」は不要かと思うが、それが詠者にとっての発見・感動の中心だったのだろう。
明けても暮れても頓着ない犬の舌桃色 小笠原玉虫
△犬に限らず、動物は末期の眼で生きている。こうした年中行事の際にそれを実感するのですよね。(働猫)
1月の句会のため、新年を詠んだ句が目立つ。
動物は生来の「末期の眼」を持っている。
人間のように明日を思い煩うことも、昨日に拘泥することもない。
動物には常に「今・ここ」しかない。本来の野生とはそれが当然の状態であるからだ。だから全力で「今」を生きる。
その姿から私たちは、人間社会の中で普段忘れていることについて気づくことができる。
それは他者との関わり方であり、世界との向き合い方である。
この気づきこそが、人間が動物と暮らすことの意味であろうかと思う。
死にたいと笑う人に寄り添えぬ朝なり 小笠原玉虫
△心に余裕がないのは朝だからなのか。きっとそうではないのだろう。(働猫)
朝の時間のないときに「死にたい」「痛い」は聞いていられない。
生活のために働きに行かなくてはならないのだ。しかし依存する側の者は、それを引き留めようとする。そうして依存される側は板挟みとなり苦しむ。
そんな痛みが詠まれた句であろうか。
懐かしくなるまで空き地見ている 地野獄美
△思い出の建物の跡地なのだろうか。土管を3つ配置してリサイタルの準備をするとバーチャルな懐かしさを得られるかもしれないですね。(働猫)
長く離れていた場所に久しぶりに訪れ、記憶と現実の違いに戸惑ったのだろうか。人の記憶は案外いいかげんであり、場所に変化がなくとも同様の戸惑いを覚えることはある。
自分も経験がある。
幼い頃を過ごした町に、旧友の父親の葬儀で二十年ぶりに訪れたことがあった。
当時のことを思いだしながら、車であちこちを回った。
町はそれほど変化がなかったにも関わらず、どこか記憶と違う。
特に違和感を覚えたのは、何度も朝から日暮れまで遊んだ山林が、どう考えても小学生の足で行くには遠すぎたことだ。
天狗の仕業だったのかもしれない。
いつまでもむかしのニベアの蓋よ母よ 地野獄美
○松本大洋の「Sunny」の中でこうした情景が描かれていたが、「ニベア=母のにおい」という記憶は一般的なものなのだろうか。残念ながら自分には共感できるものではないが、韻律のよさもあり、とる。(働猫)
「Sunny」は素晴らしい作品なのでぜひ読んでみてください。
可哀想におれの尻しか知らぬ椅子 地野獄美
△たくさんの尻を知っていることが果たして幸福かどうかはわからない。自分は車だったら他人に運転はさせたくないと思うが。こちらの句で想定されているのは風呂のいすとか便座のような気がする。可哀想なのは椅子でなく招く人もない自分のことなのだろう。(働猫)
発見のおもしろさがある。
こんな風に椅子のことを考えたことがなかった。
肺も見ていた初夢だった 十月水名
△悪夢だったのかもしれないが、無呼吸症候群かもしれない。早めの受診をお勧めします。(働猫)
息苦しさに目を覚まし、汗でじっとりと身体が濡れている。
そんな経験を詠んだものか。
新年のいささか不安な幕開けとなったことだろう。
泣いてもくっつかない夕焼けのような怪獣のしっぽ 十月水名
●「夕焼け」が何を象徴しているのかわからなかった。怪獣のおもちゃをこわしてしまった子供の様子なのだろうと思うのだが。「夕焼けのような」はどこにかかっているのか。夕焼けのような怪獣(ガラモンか)なのか、しっぽの切り口の赤い様子なのか、あるいは「くっつかない夕焼け(意味はわからない)」なのか。夕焼けで怪獣というとシーボーズを思い出しますね。「怪獣墓場」。(働猫)
使用されている一つ一つの言葉は非常に魅力的である。
どれも郷愁を誘う、胸が詰まるような語選びとなっている。
しかしそれらの結びつきがはっきりしないため、私たち読者はその曖昧さに自身の経験を補完して句を味わうことになる。
この句も成功例かと思う。
上手に元恋人の口ぶりをまねた無人駅は三日月 十月水名
△駅は思い出の場所だったのだろう。他愛のないフレーズが思い出されて、恋人の口真似をしてみた。思いがけず上手くできたのだろう。しかし駅に人気はなく、ただ空には三日月だけがあった。欠けていくのか、満ちていくのか。どちらにとるかで読後感が変わる。(働猫)
この句も、一見意味ありげに並べられた語句であるが、実は無意味を目指しているのかもしれない。
「三日月」や「無人駅」がいわゆる俳味のある語句であるため、全体としてよい雰囲気にまとまっている。
タコをマネすれば治まる 中筋祖啓
△治まるのは何であろう。怒りだろうか、発作であろうか。確かに怒りが込み上げた時にタコの真似ができれば冷静になれるかもしれない。『好かれる人の12の方法』みたいな啓発本で紹介されそうな技術ですね。(働猫)
たしかに、腹がたったときにタコのマネをすると治まる。
最近世の中の人たちは怒り過ぎだと思うので、これやれよと思う。
草が立つようにして負ける 中筋祖啓
△これは説明が必要であろう。(働猫)
実はこの句がこの回の最高得点句であった。
自分にはよく意味がわからなかったのだが、他の参加者の琴線には触れたのだろう。
一回両手で受け止めて、また捧げる 中筋祖啓
△初読時、日の光ととり、蒼天航路における程昱のエピソードを思い出した。その後、気の迷いから聖水に思えてきてしまった。(働猫)
「聖水」というのはそういうプレイがあると聞いたことがあるからです。
この句は、以前祖啓の句について取り上げたときにも紹介した句である。
原初の祈り、「原始の眼」の発現した良句であるように思う。
明日は帰省のトランクス四着 馬場古戸暢
△帰省の場合、旅行と違ってパンツは泊数分は必要ない。洗濯してもらえるからだ。都会の埃にまみれたパンツをお母さんに洗ってもらうとよい。それは回帰でもあり禊でもある。(働猫)
故郷を喪失した自分には、「帰省」は人生の中で経験することのないものとなった。回帰も禊も私には機会が得られない。
したがってどこへ行くにもパンツは泊数+1枚である。
爪切り見当たらない日々の爪のびる 馬場古戸暢
△爪切りってそうですよね。(働猫)
最近は毎週土曜日に爪を切るようにしている。
自分の場合、だいたい1週間に1度切ればよいようだ。
それでも、金曜日辺りに爪が伸びたなあと感じることもあり、やはりこういうのは一定ではないのですね。
爪と言えばジョジョの吉良義影を思いだすが、作中では爪の伸びるのが早い周期は殺人衝動が抑えられないと語られていた。
古戸暢の抑えられない衝動はなんだろうか。
深夜の階下が起き出した音だ 馬場古戸暢
△階下をどう想定するか。介護の必要な老親、あるいは病人がいると考えれば緊張感のある句にもとれる。いずれにせよ、詠み手はその音で起こされたのではない。起き続けているのだ。眠れぬ夜は神経を過敏にしてしまう。ほかにすることもないまま、階下の音が気になってしまう。また、昼夜が逆転することによりセロトニンが不足し、人との関わりがひどく億劫になってしまう。たとえ家族であっても。階下が起きだしたということは、自由で万能の時間が終わったということだ。眠れないまま眠るしかないのだろう。(働猫)
不眠は苦しいものである。
かわるがわる地球儀を抱くあにおとうと 藤井雪兎
◎幼い兄弟のほほえましい姿を思い描いた。地球儀を取り合う理由が、久しぶりに帰ってきた父のみやげだからか、それとも世界征服を宿命づけられた兄弟だからか。地球儀を句材にもってきたのがとてもよかった。(働猫)
よい句である。
「地球儀」がなんともよい句材である。
これはたまたま自分の琴線に触れたのか、一般的なものかはよくわからない。
こうであったらよかったと思えるような優しく美しい情景である。
ナウシカを見て急に立ち上がった姉 藤井雪兎
△過去何回テレビで放映されたかわからないが、過去に経験した音楽や映像が、その当時の記憶を蘇らせることがある。フラッシュバックですね。どのシーンがきっかけになったのかはわからないが、姉の何かが蘇ったのだ。世界を救いたい願望を思い出したのかもしれない。(働猫)
これも良句。
「ナウシカ」はほとんどの国民が一度は観ているアニメ作品だろう。
つまり物語の共有という意味で、季語よりも強力であるということだ。
句についての感想は当時の評で語りつくしている。
記憶が蘇るトリガーは映像や音楽など、どこにあるのかはわからないものだ。
カーテン開けて今日の窓はこれぐらい 藤井雪兎
○一人暮らしの始まりだろうか。何を食べるのも、いつ眠るのも自分で決められる自由。窓すなわち社会との接点や関わりの大きさと範囲もまた、自分で決めることができてしまう。そんな自由にやがて倦んでいくことになるのだが、今はまだその自由を謳歌できているのであろう。うらやましくもある。(働猫)
1月に入院していた頃、4人部屋だったため、ベッドの周りがぐるりとカーテンで囲まれていた。外界とのつながりはそのカーテンを開けた隙間だけであった。
当時の句評では多少前向きな捉え方をしていたが、今見直すと不自由さ、消極性を表す句であるのかもしれない。
入ってくる客入ってくる客雪化粧 風呂山洋三
△雪を避けて店に入った。喫茶店かおでん屋か。雪はやまないのだろう。入ってくる客たちはみな頭や肩に雪を乗せてくる。見知らぬ同士でも同じ境遇に思わず笑みを交わしたことだろう。店内の暖かさは暖房のおかげばかりではなかったようだ。(働猫)
これも風呂山の特徴であるあたたかさを感じさせる句である。
寒い冬の句でありながら、ほっこりするような優しい情景が描かれている。
何一つ主観を述べることなく、幸福な空間を表現している。
マフラー外す貴女の頬が紅い 風呂山洋三
△マフラーをしていたのは女か男か。どっちだったのだろう。(働猫)
どっちでもいい。目を逸らしたくなるような幸福な景である。
まったくもう。
お前の名前で乾いた唇切れた 風呂山洋三
○不意に声に出してしまった。冬は恋心にさえ油断できない。恐ろしい季節だ。(働猫)
美しい句だ。
恋とはこうした痛みの積み重ねだろう。
この回の風呂山の句はどれもよい。
* * *
以下三句がこの回の私の投句。
つくられた関係を甘噛む雪はなにも見てない 畠働猫
一生分泣くことはできない小さなからだ 畠働猫
次回は、「鉄塊」を読む〔20〕。
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