2016-06-05

自由律俳句を読む 140 「鉄塊」を読む〔26〕 畠働猫

自由律俳句を読む 140
「鉄塊」を読む26

畠 働猫


今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第二十七回(20149月)から。

文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第二十七回(20149月)より

ぼくの夜の奥が付録 十月水名
△何を言っているのかわからないが、「おまけ」とか「ついで」のような余剰感を詠んだものか。(働猫)

Don’t think, feel.
十月の句については、それが正しい向き合い方なのだろう。
しかし当時の私は全句評を自分に課していたので、名状しがたいものをどうにか述べようとしている。それがいかに滑稽なことであるかも理解しながらだ。
しかし、句評とはまさにそうした作業であろうとも思う。

この「句評について」を今回のテーマとしたい。
記事の最後で整理して述べる。



できすぎた月に鮫 十月水名
○海面に映る月なのだろう。確かにできすぎた光景である。(働猫)

一枚の絵画、映画のワンシーンのような景色である。
十月の作句法が語句を無作為にコラージュしていく方法であるとすれば、これはまさに「できすぎた」句なのであろう。



とおい国に行ってみごとな早口言葉 十月水名
Peter Piper picked a peck of pickled pepper.A peck of pickled pepper Peter Piper picked.If Peter Piper picked a peck of pickled pepper,Where's the peck of pickled pepper Peter Piper picked?(働猫)

どこの国にも早口言葉というのはあるもののようだ。
みごとに言えるよりは、失敗した方が笑いがとれて現地の人と仲良くなれそうに思う。なんでも上手くできればいいというものではない。



教授の筋肉痛が分かりやすい 十月水名
●句としてはわかりにくい。反応に困る。(働猫)

Don’t think, feel.



逃げないでと叫ぶ人みな斜め 十月水名
◎何かを追及する集団を描いたものか、それとも今まで背を向けてきた女性たち一人ひとりを描いたものか。「斜め」は前のめりの姿勢を言うのであろう。実際の景ではない。心象風景であろう。同様な表現として、自分の好きな宮澤賢治の詩「永訣の朝」中に「まがったてっぽうだまのように」というものがある。巧みである。(働猫)

これはよく解釈したと言える評ではないかと思う。
前のめりの姿勢ともとれるし、政治的な傾向を言うのかもしれない。
自らの精神状態が不安定であるがゆえに、見える景色が歪んでいるのかもしれない。



散髪の予約をいれる夏の終わりだ 風呂山洋三
△これから寒くなるので、あまり短くしない方がいいかもしれない。(働猫)

季節の変わり目をきちんと過ごす作者の人柄が見える。



亡き友の武勇を話す夜の秋めく 風呂山洋三
△戦争体験者の話を聞いているのだろうか。それとも武藤と蝶野が橋本について話しているのだろうか。悲しい。(働猫)

みないつかは死ぬ。
強い者の死は私たちにその当たり前のことを思い出させる。

ちょうどこの原稿を作成中にモハメド・アリの訃報が届いた。
また強い人が神に召された。謹んで冥福を祈る。



庭を横切る初秋の風に目覚める 風呂山洋三
△肌寒さであったか、それとも秋の香りを感じたのか。触覚あるいは嗅覚について詠んだ句であろう。美しくも思うが、やや散文的か。句としてはもう少し心に刺し込む表現が必要ではないだろうか。(働猫)

当時の自分が何に違和を覚えていたのか、今にしてわかった。
「目覚める」の主体が詠み手自身とすると、目が覚める前に「庭を横切る初秋の風」を追っていた意識はいったいだれのものなのかわからなくなる。途端にこの句は実態を失い、すべて想像で詠まれたものに思えてくる。想像であるならば、もっと飛躍ができるはずなのに、それはない。
それが「刺し込む表現」を求めたのだろう。
これがあるいは「目覚めた」であったなら、自分の目を覚ましたものはなにか、と意識を風に向かわせる、時間を遡る気づきを詠んだ句になったかもしれない。



夜の疲れた影と出掛ける 風呂山洋三
△影の様子を述べることで、その主体である自分の状態や心情を表明するという手法も古典的なものかもしれない。(働猫)

古典的手法である。美しいと思うが、なにか変化を求めてしまうわがままな読み手に私はなってしまっている。



煙草一本これで優しくなれる 風呂山洋三
△ニコチンの効果であろうか。それとも煙草を分け合うことで喫煙者同士であることがわかり、身を寄せ合うことができたのだろうか。(働猫)

喫煙者同志のつながり方であろう。

宮沢賢治「どんぐりと山猫」の中で「山猫」が「一郎」に煙草を勧める場面がある。一郎が断ると山猫は「ふふん、まだお若いから」と笑う。
私はこの場面を重要視している。
一郎は「めんどなさいばん」を片づけた後、二度と山猫からの召喚を受けることはない。私は、この「煙草を断ったこと」がその理由であると考えている。
「どんぐりと山猫」は一郎が客人(まれびと)として異界を訪れる物語である。
その異界において一郎は「知恵」を用いて、どんぐりたちの騒乱を調伏する。
異界に留まる条件は、そこでの食事である。
伊邪那美は黄泉の国で食事をし、ペルセポネは冥界でザクロを口にした。
結果としてそれぞれに異界の住人となる。
一郎が山猫から食物の摂取を誘われる場面は二度ある。
一度目は邂逅のあとの「煙草」を勧められる場面であり、二度目は裁判の報酬として「鮭の頭」と「どんぐり」のどちらにするかと選択させられる場面である。
一郎は煙草を断り、鮭ではなくどんぐりを選択する。
結果、「黄金のどんぐり」は異界を出た途端に輝きを失い、ただのどんぐりに変わってしまい、一郎のもとに山猫からの葉書が届くことは二度とないのである。

異界の例を引くまでもなく、煙草や食べ物を勧められ受け入れることはそのグループへの帰属を意味する。
「煙草一本」が緩和するものは、人間関係の軋轢や緊張なのであろう。



犬の毛先で遊ぶ秋の日 小笠原玉虫
△表現したいのは「所在ない様子」なのかもしれないが、「犬の毛先で遊ぶ」ではやや直截的過ぎるかもしれない。イメージの広がりが乏しいのではないか。あるいは「秋」を言わずに表現するとか。(働猫)

どうも当時の自評は走り過ぎているように思う。
直截的と感じたのは、もっと斬新な句、冒険した句が観たいという読み手としてのわがままさによるものであろう。
こういったわがままさは、鉄塊以外の句会に参加したり、句会報に触れることで、徐々に自分から抜けていったように思う。
それがよいか悪いかはわからない。
ただ、鉄塊参加者には、それだけ大きな要求をしていたのだと思う。



小言からそっと逃げ虫の音に包まれる 小笠原玉虫
△声の届かぬところの静けさにほっと一息ついたのだろう。かすかな音を切り取ることで静かさを表現するのは古典的な手法と言えるかもしれない。(働猫)

当時の句では古典的な手法と述べているが、玉虫にはこうした静寂の表し方がときどき見える。
そこには玉虫の認知傾向が表れているのであり、句風と言えるかもしれない。



本九割手放してここからみたことない世界 小笠原玉虫
○「書を捨てよ、町へ出よう」でしょうか。本は人生の一部でもあるため、それを手放すことは特別な情感を生むことでしょう。その特別な感情を「ここからみたことない世界」としたのは巧みな表現だと思います。(働猫)

本は間違いなく人生の一部であるが、近年自分はあまり本を読まなくなった。
人生が停滞しているとも言えるかもしれない。
早く隠居して積んである本を読めるようになりたい。
あとスカイリムとフォールアウトやりたい。



突っ立ってただ笑う布教婦人の消極 小笠原玉虫
△子連れで休日にやってくる人も、ヘルメットをかぶり自転車でやってくる人もマニュアルがあるかのようにポジティブだ。それに比べると、こうした消極的な方が効果があるような気がする。(働猫)

「布教婦人の消極」は面白い表現である。
しかし「突っ立って」がやや主観的であり、句を閉じてしまっている。作者の否定的評価が押しつけられているように思うのである。



夜闇、母のもとまで雨横たわっている 小笠原玉虫
○とったが、リズムは気持ちよくないと感じている。「夜闇母のもとまで雨横たわる」でなく「横たわっている」としたのは作者のこだわりの部分だろうか。しかし自分にはリズムを乱す語選びに感じる。読点も必要かどうか。(働猫)

雨を擬人的に配したことで、幻想的な景を作り上げている。
リズムが不安定であることは、作者の心中の不安を表現しているのかもしれない。



句を選ぶ夜を虫が鳴きよる 馬場古戸暢
△彼は一年中句を選び続けている。いつの間にか、同じ夜は秋になっていた。(働猫)

本人にそのつもりはないのかもしれないが、古戸暢の句は非常にストイックな生活の中から生まれているように感じる。
山中で修業を積む行者の如しである。



越えられない壁がある子のお尻押す子 馬場古戸暢
△実際の壁でもあり、比喩でもあるのだろう。押されて越えられる壁こそ、ヴィゴツキーの言う「発達の最近接領域」である。人はこのようにして成長していく。(働猫)

人間は人間との関係の中で相互に作用しあいながら成長してゆく。
無邪気に遊ぶ子供たちを見守りながら、それを実感している景であろう。



猫の声近くトンボとすれ違う帰路 馬場古戸暢
△猫がトンボを追っているのだろうか。(働猫)

帰路とトンボとは、郷愁を誘う組み合わせである。
それだけならば平凡な句となるところに、猫を加えることで不協和音を奏でている。



海月に刺された男の脛毛の濃い 馬場古戸暢
△濃いくせに脛を守ることができなかった。無駄な毛である。ムダ毛である。(働猫)

まったくムダ毛である。



夏は終わったシャツを着て寝る 馬場古戸暢
△この見極めが大人の経験ですね。季節の変わり目は注意しないとすぐに風邪をひきますね。(働猫)

風呂山の散髪の句同様、季節の変わり目を正しく過ごす姿である。



*     *     *



以下五句がこの回の私の投句。
目を閉じて小さく世界を肯定する溜め息ふたつ秋の闇 畠働猫
青春も幸福も過ぎてしまってコンビニがまた建つ 畠働猫
町の輪郭あらわに雨音 畠働猫
軋むブランコわたしがひとつみのむしふたつ 畠働猫
咳、訃報、咳 畠働猫



上記で述べたように、今回は「句評」について触れたい。

Don’t think, feel.
作者の表現したいものはその句そのものであり、それについて述べることはすべて余剰な行為であるとも言える。
とは言え、それらが全くの無駄であるかといえば、そうとも言えない。
「知音」の故事における伯牙と鐘子期の関係は確かに理想的である。
しかしすべての作者と評者がその関係になれるわけではないし、なる必要もない。
評を行うことは、本来無限である空間に点を打ち、線を引くことである。
そうすることで角度や高さ、距離が生まれる。
それはあるいは窓をつけることであるかもしれないし、穴を掘ることであるかもしれない。

作者にしてみれば、それは必ずしも快いことではない。
自ら創造した世界にずかずかと土足で上がり込まれるような感覚を覚えることであろうし、意図せぬ解釈は時にその繊細な心を傷つけるだろう。
ただ、それを受け入れられないのは甘えである。修羅たる覚悟の欠如であるからだ。

作者は作品の創造主であり、神である。
しかし、そこを住処とした評者、すなわち人類に直接神の声を届けるべきではない。
神としての在りようは様々であろうが、私はそう思う。
少なくとも、評者が神に近づこうと築き上げた塔を、神自ら崩壊せしめることがあってはならない。
権威ある神の自句自解は、本来無限の作品世界に制限を与え、善良な評者たちを楽園から追放する声となり得る。
(自句自解をまったく否定するわけではない。そのような神もまた必要である。)

以上のことを踏まえて、様々な神、作者に対して、評者として持つべき覚悟は道化に徹することであると私は考えている。
作者である神の意図や自解に囚われることなく、自らの意見が滑稽、浅薄と嘲笑されようとも、自由に自評を述べるために、自らを道化と看做すのがよい。

必要なものは作者への敬意一つである。
(敬意のない者の意見は封殺されてしかるべきだ。)
敬意を持って、開かれているテクストに向き合うこと。
穴を掘る位置を定め、あるいは登攀する手掛かりを打ち付けること。
それらは神である作者からは、的外れな行為に見えるかもしれない。
しかし評者は自らを道化と見做し、堂々と声を上げるのがよい。
それが次の評者の論を深めることにもなろう。
そしてまた、王側の批判者である道化として、作者の首筋に常に剣を突き付ける役も負わなくてはならない。表現者が、権威や自己模倣にとらわれ目を曇らせることのないように。
表現者は修羅であるべきである。
そして修羅が修羅であるために、評者は道化であらねばならない。



次回は、「鉄塊」を読む〔27〕。



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