2016-06-19

自由律俳句を読む 141 「鉄塊」を読む〔27〕 畠働猫

自由律俳句を読む 141
「鉄塊」を読む27

畠 働猫


今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第二十八回(201410月)から。

この回ではロケッ子氏をゲストに招き、句会を持った。
以下にその際の紹介文を再掲する。


*     *     *


【ロケッ子 氏】
ロケッ子氏は、私こと働猫が敬愛する表現者の一人である。
自由律俳句の句会「千本ノック」主催。
同句会は私が初めて参加した句会でもある。
また、以前Twitter上で「百縛百句」という企画を行った際には、
「有能な美人秘書」を自称し、ブログ運営ほか実務的な面をすべて担っていただいた。
その句には特有の(特異な)青春の匂いが漂う。
時に思春期の少女そのもののように、
時に過ぎた少女時代を愛でるように。


*     *     *


今現在親交のある俳人たちの多くがこの「千本ノック」に参加されていたため、主催であるロケッ子氏は、私にとって自由律俳句の世界を広げてくれた恩人でもある。
その「特異な少女性」は今回の句群ではあまり感じられないものかもしれない。
矢野錆助編集による『蘭鋳』の二号に、ロケッ子氏の句、50句が掲載される予定である。その発行を待って、この記事でも改めて取り上げたい。

文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第二十八回(201410月)より

秋の夜へ花火鳴りよる 馬場古戸暢
△「夜」を「よ」と読むか、「よる」と読むか。リズムで考えれば「よ」であるが、「鳴りよる」との押韻と考えれば「よる」でもおもしろい。「鳴りよる」という表現は、おそらくは方言であるが、なんとなく「鳴っていやがる」というような意味であろうかと思う。方言の使用はこのように客観的事実に主観をするりとすべりこませる効果がある。(働猫)

「~しよる」という表現には「~しやがって」という意味があるような印象を受けておもしろいのだが、方言としてはそういう意味はないらしい。
しかしその効果はすでに上で述べている通りである。記述における方言の選択がすでに主観によるものであるからだ。



薬効いてくる部屋に水滴の音 馬場古戸暢
△薬は睡眠薬と読むべきであろうか。やっとさしてきた眠気を破るように水滴の音が聞こえる。この句の寂しさは、これが孤独の句であるからだ。水滴が気になるのは独り身だからである。家人があれば気にせずに眠れるのだ。(働猫)

「寂しい」と言わずに孤独を表現している好例である。



海が薫る橋で泣く 馬場古戸暢
◎「海が薫る橋」でもうすばらしく美しい。こうした情景は想像では描けない。そしてそこでは何をしても絵になるだろう。「泣く」。泣いてしまうのである。涙や悲しみはやがて海へと流れてゆくだろう。美人であってほしい。いや、この景は美人でしか成り立たないものだ。(働猫)

この句は古戸暢句の中でも屈指と思う。
美しい句である。
古戸暢の句は美人を想起させる。



何も聞こえない闇にうなじの白い 馬場古戸暢
○「うなじ」はフェティシズムを強く刺激する。並ぶ語句は月並みかもしれないが、この景の美しさはとらざるを得ない。とります。(働猫)

美しい句である。



笑顔の頬へ陽射しやわらかい 馬場古戸暢
△これはかわいらしい。今回の古戸暢句はすべていい。(働猫)

当時の句評で述べているように、こうして連続で見ればこの回の古戸暢句の出来の良さがよくわかる。打率が高い。



少年の秋キャッチボールを壁とする 風呂山洋三
△木枯らしが吹きほかの子供たちはもう家に入ってしまった。寒さに強い子なのか。まだ半袖なのだろう。(働猫)

一人遊びの寂しさを「秋」という季節の物悲しさとうまく合わせている。
キャッチボールは会話であり、その相手が壁であることも少年の孤独を際立たせている。



黄ばんだ街路樹ぼくが咳をしている 風呂山洋三
△「黄ばんだ」は光化学スモッグが問題になったかつての排気ガスの名残りであろうか。そこで咳をするのではあたりまえすぎるか。「つきすぎ」とか言うやつだろうか。(働猫)

小学生までは白いブリーフを愛用していた。何度か履いているうちに前が黄ばんでくる。幼いころはそういうものだと思っていたが、小学6年生の修学旅行からトランクス派に転向した。自意識の目覚めである。
あれからずっとトランクスだが、パンツは黄ばまない。見えないだけで黄ばんでいるのだろうか。闇は深い。



知らない子が返事する私の名前だ 風呂山洋三
△うぐいすさんの句で「同じ名の子が叱られている」がある。週刊俳句で古戸暢が取り上げた中にもある。似たような景であるが、比べるとうぐいす句の方がリズム、衝撃とも上であるように感じる。(働猫)

名前を呼ばれてから返事をするまでの時間は、年齢と比例して長くなるように思う。
同じ名前の人の存在や、聞き違い、返事をしていやな目に遭った、などの経験から、返事をする前に一定の逡巡を要するようになるのだろう。
この句での「知らない子」の返事は、そうした穢れの無い無垢を表現しているのであり、返事できなかった自分と上手く対比している。



嵐の夜の信号を待つ足が冷たい 風呂山洋三
△これは言い過ぎの感がある。「嵐の夜」「冷たい」はどちらか省略できるのではないか。「信号を待つ」のは歩行者なのか。それなら足が冷たいのは当たり前になってしまう。また、車に乗っているのならただのわがままである。もっと違う景として読むならば、安アパートで薄いカーテンを透かして信号の点滅が部屋に入ってくる。ベッドで寄り添いながら、二人の足は冷えてゆく。こんな感じなら美しく貧しくてよい。でもそうではないのだ。「信号を待つ」ということはどこかへ向かっているのである。どこへ。嵐の夜に。足が冷たいのはサンダルだからだ。裏の畑の様子を見に行くのであろうか。だれかおじいちゃんを止めてあげてほしい。(働猫)

「美しい貧しさ」はきっと私の好む景なのである。
そのように読める句が好きなために、その解釈を妨げる要素が気になってしまう。わがままな読み手である。



秋の満ちゆく俺でいる食卓 風呂山洋三
△なんのことかわからないが、リア充という言葉が浮かんだ。(働猫)

リア充の意味が間違えているようでそうでもないように思える。



お前の与太もさみしい満月 小笠原玉虫
△二人の関係はもう終わりに近づいているのでしょうね。(働猫)

満ちた月は欠けてゆくばかり。
そのさみしさに照らされてかつて楽しかったはずの二人の会話が空転しているのだろう。



泣かず耐えたが犬は見ていた 小笠原玉虫
△見られたことを「恥」ととるか、「救い」ととるか。「救い」では当たり前すぎるので、「恥」ととり、「泣くのを見ていた犬に強請られる」景を詠めればなお面白いのではないだろうか。(働猫)

当時の句評では、「もっと」を求める私の悪い癖が出ている。
よくない。



たったひとはな残ったあさがお 小笠原玉虫
●今回明確な逆選が特になく、可能性が感じられるこちらをとる。まずこのままでは素材に過ぎないのではないか。「たった」の部分に主観が表れているともとれるが、イメージは広がりも着地もしない。「残った」は余分だろう。「たったひとはなあさがお」。これだけでもいい。さらにここに何かをぶつけるか、あさがおの象徴するものについて方向性を示す語句を入れてほしい。たとえば色を示すだけで花言葉を言外に意識させることができる。大きさを示せば育てたものの愛情を示すことができるだろう。「たったひとはなあさがお」。うーん。これが完成形かもしれない。(働猫)

「たった」と「残った」はどちらかでいいとは思う。
ただ、今の自分ならば、「たった」よりも「残った」を生かすだろう。
こうして本記事で、当時の句会を振り返っていて実感することは、句評もまたその時々で変化するということだ。良い悪いまではそうそう変わることはないが、評の切り口や角度は変化する。だから飽きないでいられるのかもしれない。



母娘さざめく風呂場の下を通る 小笠原玉虫
△「さざめく」の発見がすばらしい。なんとも幸福そうな景である。他人の幸福を描けば描くほど、それに気づいてしまう詠者の孤独、哀しみが際立つ。(働猫)

この「さざめく」は本当によい。
一緒に入浴中の母と娘の笑い声が響いている。なんと幸福な景だろう。
そしてそこを傍観者として通り過ぎる詠者の気づきが寂しさを強調する。
良句である。



ねじれて燃える秋の金魚だ 小笠原玉虫
△美しい景だ。「ねじれて」が効いている。ただこの言い切る形が最良かどうか。自分が同じ景を詠むなら「きんぎょきんぎょねじれてもえる」こんな感じが好みである。(働猫)

「ねじれて燃える」は詩情に満ちた表現だ。
紅葉あるいは夕日が金魚鉢を赤く染めているのかもしれない。



わらいころげなくてはならない校歌 十月水名
△たぶん、各聯の末に「(笑)」と入っているのでしょうね。「雲青き(笑)阿寒の峰に(笑)われらの学び舎(笑)歌声響く(笑)」みたいな感じでしょうか。(働猫)

ちなみに上記の校歌は、今は無き我が母校の校歌である。
校歌を歌うという行為がなんだか恥ずかしく、笑い転げながら歌っていたような記憶もある。
当時から帰属するということに違和感があったんだろう。



風の終わりに幻の犬 十月水名
△喪った犬の幻であろうか。一緒に散歩した季節の風が今年も吹いてくる。記憶が蘇る。その風の中で愛した犬の幻を見るのであろう。(働猫)

猫だが、ペットロスを経験したことがあるので、そのような解釈になった。



オカリナがオカリナを捨てたかたち 十月水名
△「オカリナ」はその奏者を指して言うのであろうか。それともオカリナ存在が自らの名前を捨てるという観念的な話であろうか。(働猫)

当時と違い、オカリナという名前の芸人が出てきてしまった。



香水こぼれて時間 十月水名
△後朝であろうか。別れがたく求め合う激しさが香水の瓶を倒したのだろう。(働猫)

「香水」のせいか、色気のある句である。



金木犀にだれかいる 十月水名
△どうしよう。(働猫)

どうしよう。



萩散ってそれでも笑っているしかない ロケッ子
○花が散ることは関係の変化や終わりを表すものと考えるべきだろうか。その瞬間を「笑って」やり過ごさなければならない。大人はとても大変だ。(働猫)

ロケッ子句を句群として見たとき、この句はその少女期の終わりを表現しているようで切ない。別れに際して、泣き叫ぶことなくただ笑っている自分に気づいたとき、少女は大人になってしまった喪失感を覚えるのだろう。



最後の喧嘩して自転車は速い ロケッ子
△引っ越しかな。もう会えないのに素直になれずに喧嘩してしまう。背を向けて自転車に乗る。後ろ髪を引かれながらも意地になってしまって漕ぐ足は速くなるばかり。甘酸っぱいですね。(働猫)

記憶にある景であるだけに余計に甘酸っぱく感じる。



火事じゃない火の燃え盛る ロケッ子
○「火事じゃない」と非常を常とする視点がおもしろい。大きな災害で痛みを受けた人の句であろうか。火は恐ろしいものであるが、それを用いずに我々の生活はもはや成り立たない。原子力をはじめとした科学技術全般にも言えることであるが、こうした視点の背景には、詠者の経験や思想が表れるものだ。そしてそれこそが自由律俳句の特徴と言えるのではないだろうか。(働猫)

この句もまた、ロケッ子氏の句風と言えるエキセントリックさが出ている。
もちろん褒めている。



それぞれの傘でまっすぐな道 ロケッ子
△「それぞれ」は便利。こんなにも寂しさをうまく表現できる言葉はあるまい。これも思春期の記憶を呼び起こす。相合傘で帰りたいのに、という感じか。つきあってはいないのだろう。たまたま行く方角が一緒で。道はまっすぐで。またはもっと主語が大きく、人間だれしも孤独であるということか。一人で生まれて一人で死んでゆく。せめてその人生の一瞬でも、こうしてともに歩く相手と巡り合えれば、それは幸せなことなのだろう。(働猫)

この句もまた、少女時代の終わりに気づいてしまった大人の喪失のように読める。
石炭袋の闇から振り向いたジョバンニがカムパネルラを失ってしまったときのように。声にならない叫びは雨に溶け、大人になってしまった自分は大人を装い、それぞれの道を行くしかないのだ。



こんなにも成つてゐるあけびの寂しさよ ロケッ子
△歴史的仮名遣いを選択した理由はなんだろうか。単に雰囲気の問題?それとも「あけびが成る」情景は今はなく(実際自分は見たことがない。北海道だからかな)、思い出の風景を詠んだものなのであろうか。懐古、望郷の情が表れていると考えると「寂しさ」にも説得力が加わる。(働猫)

山遊びをしていた子供の頃はあけびはごちそうであったことだろう。
だれも取らなくなってしまったあけびを見て、寂しさを感じているのかもしれない。
食べたことないので、画像を検索してみましたがグロテスクですねえ。



*     *     *



以下五句がこの回の私の投句。
君と同じ月に雨降る 畠働猫
迷いは薄墨色の夜に溶く 畠働猫
王様も俺も裸 畠働猫
胸にくちづけて秋茜 畠働猫
痛む手と手重ねてオリオン 畠働猫



今回は、ロケッ子氏の句風について何度か触れた。
この句風とはいったいなんなのであろうか。

私は、句風とは性格ではないかと思う。
論理的な文章において、いかに客観的な記述を心がけようと、そこには書いた者の認知傾向、性格がにじみ出てしまうものである。まして、句であればなおのことだろう。
これまでにも、「末期の眼」「原始の眼」「羞恥」「少女性」などと自由律俳人たちの句風を評してきた。
それらは、それぞれの人物の世界との向き合い方、認知傾向を言い表したものである。それは、それぞれの人物が世界を評価するものさし、社会的枠組み(スキーマ)のことと言っていい。
その内的な評価を、どのように表出するか(その傾向)までを含めて「句風」と呼ぶのであろう。
認知と表現の傾向となれば、これはもう性格そのものと言っていいだろう。
これが、句風とは性格であると言う理由である。

では、句風が評価されるということは、ある性格が好まれるかどうかということなのではないか。
人間性が優れているかどうかは関係ない。

たとえば、現実の生活において実害があるようなクズとはできるだけ関わり合いになりたくない。しかし、対岸で眺める分には、クズはクズであるほどおもしろい。実例は枚挙に暇がないだろう。

本来、句の評価は作者の人間性とは切り離して行われるべきである。
しかし句が二句以上になれば、そこには「句風」が表れる。「性格」が浮かび上がるのである。
句会での句の評価と句群や句集の評価が変わるのはしたがって当然のことである。評価対象が違うからだ。
認知と表現の傾向が「句風」であるとして、表現の傾向は自ら意識的に変化させることができる。しかし認知の傾向はこれまでの生き方、人生そのものであり、容易に変えることはできない。
したがって、句風が評価されるかどうかには、その作者の人間的魅力が大いに関わっていると言える。
ただし、表現者としての人間的魅力と、生活者としての人間的魅力は必ずしも一致しない。しばしば相反するものでさえある。
表現者が修羅であると言える所以はここにもあるのである。



次回は、「鉄塊」を読む〔28〕。


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