チューニングとプランニング
小津夜景
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あなたとオルガン——そう言われて真っ先に思い浮かべるのは、自分の身体器官のこと。それから音楽のこと。
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身体をほぐすときは、音楽を聴きながらだと良い感じに仕上がる。
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若い頃は、しばしば雅楽、とりわけ音取(ねとり)を聴きながら身体をほぐしていた。音取というのは楽曲に入る前に、その楽曲の調子や雰囲気を導くために演奏する、音合わせを兼ねた小曲のこと。これがめっぽう効く。風が竹林を抜けてゆく感じで、音が四肢のゆがみを顕在化させつつ、同時にすーっと調律してゆくのである。
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それと関係があるようなないような話で、クラシック鑑賞でいちばん好きなのは、曲のはじまる前のチューニングの音を聞くこと。あれも、聞くと体の器官が気持ちよくゆるみ、また逆に頭はすっきりする。
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「実際の楽曲でもチューニングっぽいのがあればいいのに」と思いながら生活していたら、ある日、アルヴォ・ペルトの「ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌」のことが頭にうかんだ。
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ペルトは高校生の頃に『タブラ・ラサ』をジャケ買いしたのが最初の出会いだ。当時はまだソ連があった時代。エストニアの音楽なんて聴いたこともない上、月のお小遣いは五千円。しかしヴァイオリンとピアノが知っている演奏家だったので勇気を出して購入に踏み切ったのである。ところが家に帰って聴いてみると愕然とするほどつまらない。かくしてこのCDは一曲目を聴き終わらないうちに投げ出されてしまった。
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それから十年ほど経ったある日、人と話していて偶然ペルトの話題が出た。私が「あの人に良い曲ってあるの?」と言うと、その人は苦笑いをして「ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌って知ってる? メロディが『ラソファミレドシラ』の下降音だけでデザインされた曲だよ」とその音源をくれた。それがなんと高校時代に買った『タブラ・ラサ』の2曲目である。驚きつつもさっそく聴いてみて、こんな面白い曲があったのか!と再度びっくり。ただしこの曲、運動しながら聴くのにはまるで向いていない。じっと静止して聴く音である。
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いま読み返してみたら、上の文章が雑誌『オルガン』に繋げられることに気づいた。どういうことかというと、『オルガン』において音取を指向しているのが鴇田智哉、そして「ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌」を指向しているのが生駒大祐ではないか、と思ったのである。この二人は一時期たいへんよく似た雰囲気の句を書いていた。が、やはり鴇田の句の底からは「ジョギングによって解放した乱父のつぶやきを句に整えてみた」〔*1〕と報告するチューニング指向の人ならではの音がきこえ、一方生駒の句の底からは「俳句ガイドライン」〔*2〕その他に明白な、自然を権力(この権力はフーコーの言うそれだ)でもって采配するプランニング指向の人ならではの音がきこえる。
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(鴇田智哉が、ジョギング中に浮かんだつぶやきに〈乱れた父〉という俳号を与えたのはなんだか面白い。〈乱れた父〉とは混乱した秩序のことなのだろうか?)
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父の箍を外した(=型を一回リセットした)場所に戻って自分のつぶやきや息づかいを解放し、その上でそれらと型との間の同調ないし破調を案配すること。あるいは俳句が似てみえることを根拠に型の再定義と最適化を考えた上で、その最適化した仕様書の中に言葉を並べたり、また別の仕様書をデザインしたりすること。と、ここまで書いて、今回チューニングとプランニングと称して書いたことは、以前自分が『オルガン』評で書いた内容〔*3〕と本質的に変わらないことに気がついた。
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とはいえこれ以上話を続けると「オルガンとわたし」という主題から離れてしまいそうだ(すでに離れてしまっている)。なので、ここでおしまい。
註
〔*2〕生駒大祐「俳句ガイドライン」に関する記事はこちら
http://weekly-haiku.blogspot.fr/2016/07/blog-post_44.html
http://weekly-haiku.blogspot.fr/2016/07/blog-post_68.html
http://weekly-haiku.blogspot.fr/2016/07/blog-post_44.html
http://weekly-haiku.blogspot.fr/2016/07/blog-post_68.html
参考動画
平調音取
ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌
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