【真説温泉あんま芸者】
「〈それ誰〉俳句」の世界
西原天気
某日、某結社の句会におじゃましたときのこと、始まりを待っていると、すぐ近くでご婦人が「あんな俳句、どこがいいのか、さっぱりわからない」という話。存じ上げない方たちの会話に耳をそばだてていたわけではないが、その「あんな俳句」が、その一カ月前に同じ結社の句会で私が投句した句だったから、耳に入ってきたのだ。
それは「吉田」で終わる句。
(ちなみに、このときどんな気分だったかというと、居づらいとか不快とかいったことはぜんぜんなくて、おもしろい! 貴重な経験してる! といった感じ)
ミョウチキリンな句だから、くさされて不思議はない。問題は、そういう場に居合わせてしまった作者のとるべき行動だ。
どうしたらいいんだろう?
「いやあ、すみません。それ、私の句です。ヘンな句で申し訳ありません」と明るく晴れやかに宣言する手もあるが、相手が気まずくならないような明るさ・晴れやかさをセリフに込める自信がなかったので、黙って静観した。
きっとこれが正解。
で、なんの話をしているのかというと、「〈それ誰〉俳句」の話なのです。
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有名人名の入った俳句は数多い(参照≫ウラハイ「人名さん」シリーズ)。扱っているもの(人)は誰誰と特定されている。ところが、誰なのかわからない、人名の句もある。
「吉田」句もそう。この「吉田」の前に、「いのうえ」の存在がある。
≫【真説温泉あんま芸者】 それを「いのうえ」と呼ぶことにする
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/09/blog-post_21.html
「いのうえ」て、誰やねん? がこの句、《いのうえの気配なくなり猫の恋 岡村知昭》への正しい反応。
苗字だけ言い放って、誰だかわからない句は、一定頻度で登場します。
川柳では、
ササキサンを軽くあやしてから眠る 榊陽子
おかじょうき川柳社の第17回杉野十佐一賞大賞作品としてよく知られた句。
ササキさんて、誰やねん?
カミサマはヤマダジツコと名乗られた 江口ちかる
樋口由紀子さんの「金曜日の川柳」でも取り上げられた句。
フルネームですから、これまで掲げた「苗字だけ」とは異なりますが、「誰やねん?」という意味では、同じ。
この句を初めて見たときは、かなりの衝撃を受けました。
「ヤマダジツコ」が絶妙で曲者。ありそうでなさそうな、リアリティのぎりぎりの巧みな名前設定である。(樋口由起子)
じつに、そのとおりです。
川柳といえば、川柳作家のなかはられいこさんが、私のブログで巻いた歌仙で、こんな付句。
囀るやうな久保田の財布 なかはられいこ
久保田て、誰やねん?(この決め台詞、以下省略)
短歌だと、
センサーの反応しない園田さんドアの向こうでまた立ち尽くす まぬがれてみちお
柳本々々さんのブログで見つけた歌です。
こんな短歌もあります。
百点を取りしマサルは答案の束もつ我にひたすら祈る 小早川忠義
川柳や短歌のほうが、俳句よりも、出現頻度が高いかもしれない。
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「それ誰」要素は、読者を一定の印象へと誘導するのではなく(というのは、俳句において「桜」や「雨」や「柱」の語が一定のシニフィエを前提とするのと対照的という意味です)、人間〔*〕という以外、あるいは日本人という以外は、なんのヒントも与えてくれない点、読者の意識を軽く路頭に迷わせます。
「路頭に迷う」は、作者の狙った効果であり、俳句、すなわち短く、片言となりがちな俳句においてとりわけ、奇妙な味を醸すことがあります。
〈それ誰〉句は、読者が「それ誰?」と思った瞬間、それでもうじゅうぶんな成功を収めているともいえるでしょう。
なんと、安易。
〈それ誰〉俳句、バンザイ。
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ところで、気づくと、俳句の例をあまり挙げていませんでした。
種痘痕吉井明子は転校生 岡野泰輔
フルネームで〈それ誰?〉な点、「ヤマダジツコ」型。実在の人なのかもしれませんが、さしあたり有名人ではない。作者の中に棲む種痘痕の少女なのでしょう。
さらに、拙作で恐縮ですが、
ペンギンと虹と山本勝之と 西原天気
山本勝之は実在の友人(物故)。けれども知らない人のほうが多いから、「誰それ」俳句の部類でしょう。
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一方、「なんだかわからなく路頭に迷う」タイプとは違うものも、最近、見ました。
福田若之「田中は意味しない」10句
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/07/10_78.html
「田中」は、小岱シオン(こぬたしおん=connotation)が暗示したのとは違い、無意味に向かった人名。人である必要さえもないようで、この3文字は「わかめ」でも「オイラ」でも代用が効きそうです。
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俳句業界・俳句世間では、固有名詞を嫌い、その使用を軽蔑する傾向があります。地名はそのかぎりではありませんが、なべて、そう。そして、人名はとりわけ。
そうした規範的な考え方に対して、なにか疑義や反論を言おうというのではありません。それはそれで、尊重されるべき考え方。
しかしながら、良いとされるもののみ良いとする気が、私にはありません。規範とは別のところで、〈それ誰〉俳句をこれからも愛していこうと思います。
〔*〕以前、句の中にある「ジョンの声」を、犬の声と解したところ、作者はジョン・レノンのつもりだったことがわかりました。人間かそうでないかも曖昧なケースがあります。
— 長谷部 (@kidaihasegawa) 2016年8月4日
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