【週俳8月の俳句を読む】
距離と感覚
小野裕三
まだ顔をもたずに伸びて青芒 進藤剛至
青芒は当然いつかは顔を持ちますが今は持っていません、という、なんとも見てきたような嘘が語られるわけです。ここで現在と未来のふたつの時間が提示されていることは、植物が成長していく生命の力を時間の流れとして句の中に織り込んだと言えます。ただ、その生命力がやがて顔の形を取るというのがどこか気味悪くもあり力強くもある、この句の不思議な魅力になっています。しかも、その顔は今時点では存在しないのでそれがどんな顔かもここでは示されず、その不定形で流動的な感じはしかし生命力の本質のようでもあります。そしてその形は未来のものとして読み手の想像力に委ねられているので、読み手は自分の中で想像力が蠢きだす気味悪さのようなものも同時に感じてしまうのです。
追ひこさず追ひこされずに踊の輪 加田由美
日本の踊りって、確かにこんな感じです。輪を作って踊る。少し前に進み、後ろに下がり、また前に進み、また後ろに下がる。そんなことを延々と繰り返しながら、踊りの輪は進みます。追い越したり追い越されたりという競争めいたものもなく、ここではすべてが平穏なリズムの中で進みます。そしてこの句で面白いのは、「追ひこさず追ひこされず」と似た字面が重ねられていることです。その重複が、踊りの輪で人の背が幾重にも重なる様をどこか彷彿とさせます。ひらがなのくねくねした形がなにやら踊る人々の手や足の動きにも見えて、例えば「追」が背中で「ひ」はその周りをひらひらと泳ぐ掌のようです。文字の視覚的にも、日本の踊りの姿が見えてくるのです。
涼新た鳥のかたちが欄干に 鷲巣正徳
「かたち」とは鳥が地表に落とす影のことでしょうか。この句では橋を取り巻く明るい色合いや心地よい空気などがまずはバランスよく配置され、その景の中を鳥は素早く動き回るのです。鳥が動けばその影も同時に動き、そこに時間差はありません。なのですが、鳥の動きにリアルタイムに同期するはずの影の動きは、どこかぎこちないもののようで、何かがそのふたつの間でずれているようにも思えます。そしてその微妙な感覚のずれのようなもの、つまり実体と影というふたつのものがどこかで噛み合っていないような、その微細な違和感が景色全体の生々しさを見事に支えているように思えるのです。
水煙秋の言葉に立ちのぼる 生駒大祐
見たところ、シンプルな成り立ちの句と見えます。そもそも、水煙というものは立ち上るものに決まっています。その意味では、「立ち上る」の記述は冗長なもののようにも思えるわけです。ですが、この句ではまず「秋」という単語がどんと真ん中にあります。そうすると、不思議にその周囲の言葉全部がこの「秋」に繋がっていくようにも思えます。水と秋。煙と秋。言葉と秋。立つと秋。のぼると秋。それぞれの繋がりがそれぞれに説得力を持っているようにも思えるので不思議です。そのように、句の要素がそれぞれ直接に秋という主題と繋がりを持っているのかも知れません。そうだとすると、俳句の言葉の配列としては面白い新奇性のある句と言えそうです。
かかりさるともだちいんび秋まつり 田島健一
試しに、この文字をキーボードに入力して漢字変換してみましょう。漢字変換とは、意味をあいまいなままで放置せず、明確な意味を持たせることでもあります。係去る友達淫靡秋祭り。罹り猿友断ち韻美秋祀り。蚊借り去る徒もだ血韻火秋待つ利。たぶん、どこまでやってもやっぱり漢字は確定しませんし、だから意味も確定しません。そうやっているうちに、「意味」とはそもそもどこにあるのかと考えます。「ひらがな」と「漢字」の変換の間に、その二種の文字の中間地帯に、意味ってあるんでしょうか。いや、それも変な話です。でもただひとつ言えることは、ひらがなを漢字に変換するという、デジタル化以降の日本語の「書く」あり方が、日本語における意味の質感を変えてしまったかも知れないことです。文字の「変換」という形で眼前で意味が立ち上がる現象を、人々が毎日何百回となく無意識のように反復している事実は、日本語にいったい何をもたらすのでしょう。この作者も、そのような現代日本語における意味の〝場所〟に関心があるのかも知れません。
指が画をぐるぐるにして飛ばす蛇 鴇田智哉
意味に充ちた無意味さ、みたいなものを感じてしまう句なのですが、そのような意味性の問題が呼吸や間合いの技術として対処されているように感じます。これはきわめて個人的な感覚かも知れませんが、この句は、俳句における規範的な呼吸のリズムからすると、何かがちょっとだけ多いように思えます。そしてそのちょっとだけ多い一呼吸分を削れば俳句の意味としてはかろうじて成立する、でもほんの一呼吸だけ基準より多いことが原因で、全体の意味的凝縮力が崩れ去っていく。しかもそれでいて、この句はきちんとした五七五の正調な韻律内に収まってもいます。つまり、その五七五の器に意味の要素を載せていく、その意味付けの間合いのようなものがほんの一呼吸だけ過剰で、それゆえに句全体の意味性が無に近づいてしまっているのです。俳句の間合いや呼吸を熟知しているはずの作者だけに、この韻律の破調ならぬ意味の間合いの破調のようなものがどうにも面白く感じられます。
冷蔵庫→孤独→クローン、でおしまい 福田若之
このような尻取り遊びに基づいた俳句作品は、他の俳人に先例がないわけではありません。でも、この作者はそれだけではなく、独自の面白い要素を組み込んでいるようです。矢印や読点もそうでしょう。そしてそういう仕掛けをちゃんと五七五のリズムに乗せて、「おしまい」の言葉でぶちっと断ち切ります。その断ち切りっぷりがポイントです。尻取りという、原理的には永遠に繋がりうるものでありながら、ぶちっと唐突に終わるゲーム。多くのゲームはゲームを終わらせるために競うのですが(王将を取ったり、切り札を出したりして終わりますね)、尻取りは不思議なゲームでゲームを終わらせないために競います。でも、ほんとにその遊びに終わりがなく続いたらそれはそれで困ります。だから尻取りとはそういう変な矛盾を抱えるゲームなわけで、その「終わりのないことを競うゲーム」という奇妙さは、どこか言語というものがそもそも持つ本質にも似ています。と、なんだかそんな哲学的なことを考えてしまう面白い句です。
かなかなと油絵の具の混ざりたる 宮本佳世乃
句の景としては、外で蟬が鳴いていて、たぶん窓は開け放たれていて、その部屋で誰かが油絵を描いているのです。その景だけでも気持ちよさがありますが、要素としてはそれほど特別なものではありません。でも、それらの要素が混ざっているということから面白さが生まれます。ここで混ざっているのは何なのでしょう。光と色? 音と具材? 景色と匂い? ともあれ、いろんなレベルの質感の重なりのようなものが縦横に行き交うことで、この句を要素以上に深みのあるものにします。そしてそのような句の真ん中に、絵を描く人の立った姿が見えます。それが油絵であることは象徴的で、西洋画法的な遠近法の中にこの句の世界は位置づけられており、そしてこの遠近法的空間があるからこそ、それをとりまく多層的な質感の交錯が重厚なものになっているようにも思えます。
口唇やとほく砕ける秋の潮 岡野泰輔
静かな海のある土地に唇だけが浮かんでいるような、どこか非現実的な景色を想像します。そしてその唇がまるで耳元で囁いてくるような、肉感性すらもこの句には漂います。その肉感性の一因は、旧仮名遣いの持つ艶めかしさにあるのかも知れません。ともあれ、「とほく」と明示されているにもかかわらず、この句には不思議な近接性を感じます。海は遠くにあるはずなのですが、その砕ける波音はまるで耳元にあるように間近に聞こえるのです。唇が艶めかしく何かを囁くように、波の音も耳の中で砕けていきます。どこか非現実的で抽象的でもありながら、しかし感覚としては肉感的な具体性を持つ句です。距離と感覚(肉感)にまつわる巧みなバランス感覚がこのような句を可能にしたのでしょう。
2016-09-18
【週俳8月の俳句を読む】距離と感覚 小野裕三
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