自由律俳句を読む 150
「中塚一碧楼」を読む〔2〕
畠 働猫
前回に続き、中塚一碧楼の句を鑑賞する。
今回は第二句集『一碧楼第二句集』より句をとる。
▽句集『一碧楼第二句集』(大正9年6月)より【大正元年~9年】
うすもの著てそなたの他人らしいこと 中塚一碧楼
此木がきつと芽立つてあなたが私にひきずられる 同
夜の菜の花の匂ひ立つ君を帰さじ 同
霜夜逢へばいとしくて胸もとのさま 同
まず、いくつか恋の匂いのする句を。
上から季節は夏、春、春、冬であろうか。
一碧楼にとっては、一年を通して恋の季節であったものか。
特に「夜の菜の花の匂ひ立つ君を帰さじ」には、春の夜の熱が感じられて秀句である。
裸で飯を食うて淋しいか足を組みなさい 同
裸で三味をきいてゐる善良だ 同
続いて裸二句。
「足を組みなさい」は実に変態的である。変態先生である。
そして「三味を聞いてゐる」は情事のあとであろうか。ここでの「善良」とは、現代のスラングで言うところの「賢者タイム」であろう。疾風怒濤の嵐が去り、一時的に性欲が枯渇している状態。悟りにも似た心境で聞く三味線の音色。あるいはこれも末期の眼であったかもしれない。
霙れるそのうなぢへメスを刺させい 同
夫人よ炎天の坂下でどぎまぎしてよろしい 同
蜻蛉の羽をもぐ快さ大地がしんとしてくる 同
次の三句にも詠者の変態性、性的な嗜好が表われている。
「霙れるそのうなぢへメスを刺させい」などは非常に変態的ではあるが、なんとなくわかる気のする句である。細いうなじの白い美しさにこのような欲望を抱くこともできるのだと、そしてそうした欲望が読む者の中にも少なからず存在しているのだと気づかせる。しかし「蜻蛉の羽をもぐ快さ」にも見られるその嗜好はけしてサディズムなどではない。それとは異質のものである。
また「夫人よ」の句における「どぎまぎしてよろしい」などもフェティシズム淫靡さを感じて実によい。
紫ばかり朝顔が咲く工場住ひよ 同
秋風家吹けば百人の女もの食へり 同
女工たちを詠んだものかと思う。
朝顔の色は土の酸性度によって変化するそうだ。朝顔が咲く明け方から仕事が始まり、ようやく昼休みになり疲れた女工たちはいっせいに食事をとる。そんな様子か。この頃の一碧楼には労働者に視線を向けた句が多く見られる。大正デモクラシーという時代の空気もあったことであろうが、一碧楼の心底には弱者や小さいものを見過ごせないヒューマニズムがあったように思う。
若い者が死んだ涼しい日の日覆垂れ 同
「十八才の工夫工事中感電して死ぬ 三句」と前書きがあるもののうちの一句。
若者の死にやりきれぬ思いを抱いたのだろう。
先にあげた句同様、こちらも労働者へのまなざしが詠ませた句である。
萩が咲きそめる川向ふできつい労働だ 同
こちらも労働者を詠んだ句。
ただ、先の句もそうであるが、「労働」に対して常に傍観的であるのが特徴と言える。啄木もそうであったように働かない者ほど労働を語りたがるものかもしれない。
菜種が咲きかけた夜明け方の貧民 同
夏朝貧民の児が引抱へたる一つのキャベツ 同
「貧民」という直截的な表現に、現代の感覚だとどきりとしてしまうが、一碧楼には貧しい人々を詠んだ句も多い。しかしそれらの句は、けして憐憫を垂れるのではなく、今目の前に在る人々をあるがままに詠んだものである。
咲きかけた菜種も夜明けも、一つのキャベツも、そこで生きる人々の生命の象徴である。
親鳥まどろみ春の潮鳴りたうたうたう 同
小牛は何もなき冬田を眺めハタと走り止みたる 同
蛇ころしたる空の青さの和み 同
ある日はひとりで体操をして蠅が淋しい 同
月夜の山々のけだものよ毛を持ちし 同
動物を詠んだ句。
上四句は、それぞれの動物の行動や声を写生したものである。
蛇に関しては動かなくなってからの静けさを詠むことで、その前のうねりや跳ね回る様子がかえって見えてくる句である。
最後の句は想像の中のけだものたちだろう。
山の獣たちとも分かち合いたいと思うようなよい月だったのだろう。想像の中で酒を酌み交わし、肩を抱き合えば毛のあることに気づいたということか。
霜が地に下りる堅気であるまいやつ 同
おもしろい句である。人を見た目で判断してはいけないが、まちがってもいないのだろう。
坂町ででくはしてしまつて黒い襟巻をしとる 同
なんとなく色町であったように思う。
気まずい出会いであったのではないか。お互い知らぬふりをしたい視線が顔からそれて襟巻をとらえたものか。
闇から来る人来る人この火鉢にて煙草をすひけり 同
状況があまりよくはわからないのだが、誰もが無言であるように思う。
通夜、あるいは葬儀の景を想像した。
秋の昼赤子口を突き出して何ぞ 同
「何ぞ」と言われても知ったことではないのだが、他人ならず血を分けた赤子であればそんななんでもないような所作にも慈しみを覚えるのであろう。実に人間臭い句である。
善い坊さんが来て冬の海蒼き 同
麦秋の河のうねりうねり入る海や 同
海の句二句。
岡山の瀬戸内に面した土地に一碧楼は生を受けている。
自然、海と向き合う日々を過ごしたことだろう。その生活には常に海がある。
季節ごとに変わるその姿も、詠者の創作の源となったことだろう。
黒い風呂敷に何もかも包み梅林 同
持ち物の少なさから貧しさを表現したものかもしれない。しかしその少ない持ち物は捨てられない執着でもある。梅林はそうした迷いの象徴のようにも思える。
雪ふる夜の障子多けれ逝くや 同
茹栗うまいうまい流産した顔を見せとる 同
『はかぐら』でも多く見られたように、一碧楼には死を詠んだ句も多い。
「茹栗うまいうまい」は、その痛みを周囲に気遣わせぬように無理に笑って見せている様子が活写されている。この句のように死を絶望的にではなく、そこに向かう人の強さや尊さを描写するのが一碧楼の特徴と言えるだろう。
姪がつくりし草花の咲く中にても向日葵 同
「姪を失いて 四句」と前書きのあるうちの一句。
これも死を詠んだ句である。
姪の遺した花壇にすっくと向日葵が立っているものか。
在りし日の姪の姿が重なり悲しみを誘うのだ。
ペラペラの首巻我が巻けば風邪で死なない 同
おもしろい表現である。ペラペラは生地の薄さ、貧しさを表現しているのだろう。そんなものでもあれば命を温めることができる。
火燵ふとんの華やかさありて母老い給ふ 同
こたつふとんは確かに派手な柄が多い。冬の寒さ、色彩の無さを補うためでもあろうか。そしてその鮮やかなふとんの中で母は小さく老いている。色彩の華やかさと老いの静けさとが対比され強調されている。
鴨打を憎み歩み 同
これまでの句と異なり、短律の句である。
小さいもの弱いものへの憐憫であろうか。銃声が静寂を破ったことへの憎しみか。想像の膨らむ句である。
* * *
第二句集では、前回紹介した『はかぐら』では垣間見る程度であった「人間一碧楼」が随所に顔を出しているように思えた。
女性への恋慕、小さきものへの慈しみ、親しいもの、そうでないものの死への哀悼、悲しみ、社会という変えられぬものへの行き場のない怒り。
そうした感情を表現するために自由を渇望したのだろう。
次回は、第三句集以降の一碧楼の句を鑑賞する。
前回言及した「添削」についてであるが、それもまた次回へ持ち越したい。
次回は、「中塚一碧楼」を読む〔3〕。
※句の表記については『鑑賞現代俳句全集 第三巻 自由律俳句の世界(立風書房,1980)』によった。
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