【八田木枯の一句】
惜しまざるものありや年惜しみけり
角谷昌子
惜しまざるものありや年惜しみけり 八田木枯
「鏡」3号より。『八田木枯全句集』所収。
木枯最晩年のこの句、この世の中に「惜しまざるものありや」との問いかけは、読者に向けられているというより、自分自身の心の奥底に呼び掛けているようでもある。下五の畳み掛けるような「年惜しみけり」は自問自答の軽やかさではなく、己の生涯を回顧した末の重量が掛かっている。だが「けり」の詠嘆は単なる感慨に終わっていない。木枯は重篤な肺の病という、逃れようのない運命を負いながら、しみじみと来し方を振り返っている。そこには悲壮感はなく、安易な諦念もなく、淡々と事実を受け入れる創作者としての立ち位置が浮かび上がる。細りゆくいのちを客観的に見つめながら、最期まで俳句を作り続けた木枯の心の灯を手囲いで守るような、こまやかな気息がある。
この句は木枯にしては、独自の個性が淡い句と言えよう。「惜しまざるものありやなし」の余韻を曳きながら、「惜しみけり」と下五にそっと置いたところに、万感の思いが籠る。
「鏡」3号の同時発表作に〈梟や父恋へば母重なり来〉〈天啓や鶴の卵はあをびかり〉〈鶴の子を見失ひたる夜汽車かな〉〈手鞠つく数のあまたをつきにけり〉など華麗な見せ場の多い句に比べると、掲句〈惜しまざるものありや年惜しみけり〉は、ふと深く吐いた息のように地味だが読者の心にしみいってくる。
木枯は延命治療を拒み、ご長女の夕刈さんに看取られ、平成24年(2012)3月19日、枯れきって最期を自宅で迎えた。亡くなる前に書いた言葉が「白扇落ちた」だった。木枯自身が「白扇」となってすうっと谿底へ落ちてゆくイメージは、寂しいがどこか華やいでいる。闇ではなく、白扇は光を返しながら、ひらひらと宙で舞い続ける。永遠の時空で舞う扇は、白く輝く。「光」を懼れ「闇」を愛した木枯は、この世を「惜しみ」ながら、泉下でも扇をかざしながら、俳句を作っているのだろうか。
2015年3月から、長きに亘って木枯俳句に毎月お付き合いいただき、ありがとうございました。鑑賞を執筆できて誠に嬉しいことでした。これがきっかけで、木枯俳句に興味を持っていただけましたら幸いです。
2016-12-18
【八田木枯の一句】惜しまざるものありや年惜しみけり 角谷昌子
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