【句集を読む】
描写と抒情から遠く
岡村知昭句集『然るべく』
西原天気
腹巻とサンダルでふらっとやってきて、いきなりバッターボックスに入ってバットを振ると、球は力強く外野へと飛んでいく。お揃いのユニフォームで身を固めた草野球チームの面々を尻目に、また、ぶんとバットを振る。
句集『然るべく』の作者・岡村知昭はそんな俳人だと思った。
そして、こんどはマウンドへ。投げる球は、どれも変化する。素直な直球は皆無。空振りをとるような大きな鋭い変化球もあれば、微妙に変化して、バットの芯をはずす球も多い。
というわけで、この句集に入っている句は、どれも相当の飛距離があり、どれもちょっとクセ球で、捕球にも苦労する。言い換えれば、どの句もおもしろく読め、どの句も、なんらかに「わからない」。
底の割れた句はほとんどない。これは素直な賞賛。同時に、どこかヘンで、多種多様なわからなさを味わう。
この「わからなさ」は、難しい語や凝りすぎた語の接合から来るものではない。表面上の意味は明瞭。しかしながら、この語とこの語がどうして同居するのかは不明、といった類のわからなさだ。
念のために言っておくと、『然るべく』の句群のもつわからなさ、私はイヤじゃない。むしろおもしろい。
ただし、私の中の〈わからない反応〉や〈それでも好き反応〉を説明するのは、とてもむずかしい。そこで、句集『然るべく』の3つの特徴について話したい。句集を語るに迂遠で、また不毛かもしれないが、ま、いいでしょう。
〔『然るべく』の特徴〕
1 否定形が多い
2 非=詩語と俳句的事物の接合
3 奇行
ひとつずつ説明していきますね。
1 否定形が多い
これはもう素晴らしく多い。俳句史上最も多いのではないかと思うくらい多い。
眠らぬよ梅林行きのバスに乗り 岡村知昭(以下同)
さいころの見当たらぬ雛祭かな
啓蟄を告げられなくて左利き
目撃はなかったことに山笑う
仮病とは思わねど三月の雪
牡丹雪降りだし悟らなくてよし
チューリップ咲くはずのない箪笥かな
案内の尼僧笑わず養花天
花冷のついに外れぬ指輪かな
自転車へたどり着かざる朧かな
シクラメンだから三階にはいない
本名はいらなくなりて春の海
以上、第1章(全27頁・53句)だけで否定形を含む句が12句ある。4~5句に1回は否定形。一般に用言のない句もあるので、20~25パーセントはかなり多い。
一巻ぜんぶから引いてもいいけれど、それだと引用過多。『然るべく』の句の姿、おもしろさは、上の12句だけでも充分に伝わるので、興味のある方は、なんらかの方法で入手してください。
2 非=詩語と俳句的事物の接合
説明がむずかしく、その説明にも曖昧さが残るだろうが、つまり、俳句、特に伝統的俳句と相性のよくない政治用語・経済用語のたぐいがまあまあの頻度で登場し、季語をはじめとする俳句的事物と、なかば乱暴に接合される。二物衝撃と呼んでいいと思うが、句の部品としての非=詩語の感触・肌合いがかなり奇妙。
チューリップ治安維持法よりピンク
資本主義礼賛茅の輪くぐりけり
冷やしカレーうどんなり強硬派なり
こんな調子。
初鰹この人握手会帰り
「この人」の挿入具合と「初鰹」の唐突が「握手会」という違和を際立たせる。
空梅雨のベリーダンスの遅刻かな
ベリーダンスの突拍子のなさを、「空梅雨」の唐突さが増幅。
非婚未婚なんじゃもんじゃは白い花
非戦不戦なんじゃもんじゃは散りにけり
結婚と戦争の併置がキモ。「なんじゃもんじゃ」は、その語感からか、「俳句の国」の住人お気入り季語。岡村知昭は「俳句の国」の住民票は持っていない(不法移民ぽくはある=褒めています)。したがって、ここでの季語はきわめて非=季語的/批評的。
3 奇行
奇行の主は、作者か、作中主体か、そのいずれでもない第三者(特定のない行為者を含む)かの違いはあるが(その区別が判然としないこともある)、どうせなら、作者の奇行と解するのがいい。せっかくこんな(↓)著者近影がカバー袖にあるんだし。
眉剃ってひよこめぐりのみんなかな
みんなが眉を剃ると、なかなかに迫力。「ひよこめぐり」とのギャップに、奇妙なエロチシズムさえ漂う。
あめんぼういなくなくなりぜんぶ脱ぐ
脱いで脱いで心太より柔らかで
この人、たびたび脱いでます。
日時計を産める優良児を探す
優良児は男児のイメージがあります。となると、よけいに奇妙でマニアックな探索。
ほくろ除去手術見学冴え返る
春一番タイプライター見物へ
ヘンなものを見に行く人です。
花冷えや銀紙でこいびとつくる
膝枕禁止嘆願花は葉に
雨音や斜塔を妻といたしたく
恋愛三部作と勝手に呼んでいる。
1句目。銀紙の恋人と花冷えは、俳句的にあんばいがよろしく、それがかえって可笑しい。
2句目。膝枕とは、またヘンなところにこだわる人です。
3句目。斜塔の妻。これにはぐっと来た。五重塔や東京タワーよりも、斜塔がいい。女性の好みが私と合いそうです。
祖母の忌のおねしょのあとの受賞かな
あわゆきと鼻血のひさしぶりである
空港や痔のはじまりの敗戦日
おねしょしたり、鼻血出したり、忙しい。おまけに痔です。それも空港で。
(2句目の語尾「である」の奇妙さは特記事項)
以上、3つの特徴。
●
否定形は、俳句の作法では避けるように言われることが多い。作法でなくても、否定とは、観念/概念の分野、作者の脳の操作が加わります。例:モノが「ある」ことは誰もいなくても「ある」。「ない」ことは、「ない」と認識する者が必要。
否定形は、極端に言えば「反=俳句的」。
これに、非=従来的な二物のぶつかり、奇行、こうした特徴を加えると、『然るべく』の俳句は、きわめて「反=俳句的」、もうすこしマイルドに言えば、従来から多くの人が思っていたような俳句ではありません。
この句集の、岡村知昭句のおもしろさ(広義のおもしろさ)は、このラディカルに過激に反=俳句的である点です。
こう書くと、「いや、むしろこれこそが俳句的でしょう?」と反論する人が出てきそうです。永遠に「いやむしろ」を繰り返す不毛な遊びと片付けてもいいのですが、いちおう、ここで言う「俳句的なるもの」とは、メインストリームとは言いませんが、人が「俳句をやっています」と答えて、どんな俳句をやっているのか、そのうちの多数派とざっくり捉えてください。
こう書くと、「少数派の俳句はほかにもたくさんある」と思う方もおおぜいいらっしゃることでしょう。そのとおりですが、『然るべく』に並んだ句群はかなりユニークです。
閑話休題。いわゆる「よくある俳句」の話です。
さて、多数派俳句の最大の特徴は「描写」です。
事物を描く。プラス季語。
前半部分が描写ではなく、気持ちだったり(それも心理描写ですが)、格言だったり、なにかのまとめだったりすると、描写の役割は季語が担います。
いずれにせよ、描写。
伝統派/客観写生標榜派であろうが、ちょっと前衛ぽく幻想ぽく派でろうが、描写は共通しています。
ところが、『然るべく』には、描写の要素が希薄です。なにかを描いて、読者に提示すること(まるで目に見えるような句だ!という賞賛!)に興味がないように見えます。
わずかな例外が、
寝室や熟柿のごとく麗子像
これはよくわかる比喩。けれども、こうしたタイプの「わかりやすい」句はほんとうに少ない。
●
で、ここから、冒険的なことをいえば…
描写のないところには抒情がない。
俳句の多くは描写を通して抒情を得てきた。描写の質と抒情の質はパラレルなところがあります。硬質、高尚、あるいは飄逸。それらの価値において、描写と抒情が同じ高さで上下する。
『然るべく』に描写を感じない私は、抒情を感じない。
私にとって『然るべく』の最大の魅力は、そこ。抒情がないところです。
「詩」好きの人なら「詩情」に言い換えてもいいでしょう。『然るべく』には「詩」がない。きれいさっぱり詩がなくて、気持ちがいい。私は(反語でも比喩でもなく)「詩」が嫌いなので、この点、大いに愛せます。
つまり(いきなりこの記事を終わらせますが)、『然るべく』はパンクです。
俳句の否定、ユニフォームを着込んで草野球に興じてきた俳句愛好者、俳人が、ルールや作法に則ってモノしてきた俳句の否定、という意味において、パンク。
というわけで、この句集は、細かいことを気にせず、大音量で鳴らすのが、正解です。
余談1
『然るべく』の本文には「箪」「祷」等のウソ字、略字が多く混じる。この方向での非=リファインもまた、パンクっぽい。
余談2
帯に「俳句世界のダークホース」とある。これはダメ。私が編集者なら「俳句界のホース」とワケわからなくする。あるいは「俳句界のスタリオン」と、ちょっとお下品にする。
余談3
『然るべく』の岡村知昭がラモーンズなら、同世代の田島健一の新刊『ただならぬぽ』はトーキング・ヘッズ(かもしれない)。ちなみに、ニューヨーク・パンクの担い手は1950年前後生まれが中心。俳句パンクの誕生は世代的に20年ほど遅れている。
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