【句集を読む】
終わらない散歩
小津夜景『フラワーズ・カンフー』
西原天気
いちぎやうですらりと歌をつくり棄て長い散歩に出やうとおもふ
紀野恵
1
ねむりとめざめのあいだの薄い膜のうえを滑っていくような句集なのでした。
気を失いつつ正気、というか。
《いまここ》の生起と喪失が同時に現象している、というか。
2
ところで、散歩。
散歩を遊びと呼んだり遊びの範疇に入れたりは、ふつうしないのですが、散歩ほど心遊ばせるものを知りません。あるいは、散歩ほど自由なものはない。戯言を加えれば、散歩はタダ(free)。
散歩にはルールがない。
だから、やはり遊びとは言えないかもしれない。けれども、だから、自由。
散歩に存する圧倒的な自由は、『フラカン』にも通じるものです。その理由はひとつではありません。因習的な俳句的仕組・俳句的興趣からの自由、慣習的な句集の構成・成り立ちからの自由等々。
……と、分析的に、脆弱に分析的に理由を並べ立てるのは、なんだか無粋だし、へなちょこっぽい。「ああ、これは散歩なのだ、『フラカン』を読むことは散歩なのだ」と、呆けて言い放ったままにするのがいい。ここにこうして書き連ねるあいだも、散歩のように、よけいなことを考えず、目に触れたものを愉しむ。そぞろ、断章形式がよろしいのです。
加えるに、句集レビューたるこの一文を書くことに没頭してはならない、集中してはならない。散歩だから。
なので、途中、冷蔵庫を開けたり、自転車に乗って国立飯店まで出かけオムライスを食したり(卵トロトロといった当世のしゃらくさいオムライスではありません。卵がきちんと薄い昔ながらのオムライス)、楽器に触ったり、読みかけだった本を読んだりしなくてはいけないのでした。
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さて、『フラカン』です。
ここにおいて、身体/精神を駆動するのは、覚醒への意思、睡眠への誘惑、そのいずれかひとつではありません。めざめていれば、ねむりへと誘われ、ねむっていれば、覚醒が促される。めざめとねむりがたがいに作用して、回転型エンジンのごとく駆動している。しかし、これ、考えてみれば、私たちが生きていること、そのものです。
4
最初の頁には、《たぶららさ》と《千年王国》。従来的な俳句読者〔*1〕、おそらくは和風テイストに親しんできた人々には、少々熟れの悪い西欧概念語かもしれませんが、「タブララサ tabula rasa」は「白紙状態」の意。そう解するだけで充分。この語を手近で調べるとジョン・ロックの名なども出てきますが、この句の雨には無関係。
あたたかなたぶららさなり雨のふる〔p9〕
「白紙状態」、つまり「予見なしでこの本をお読みください」との意思も漂わせ(私などは素直にそう読む)、同時にその雨の背後から、《あたたかな雨が降るなり枯葎 正岡子規》がやわらかな調子で響いてきて、とても穏やかな心持ちで、この句集のページを繰り始めるわけです。
次の句、至福千年ののちに《なきがら》となった《千年人間=ミレネリアン》に降りかかるのは、雨ではなく《ミモザ》〔p9〕。
タブララサのゼロから1000年の遺体へ、雨からミモザへ。
「空白」「虚ろ」のイメージに包まれたまま、まだ数句が続きます。《かーざびあんか》(白い家)、《手ぶら》、サヨナラなしに消えるもの〔p10〕。
私たちが、あると思っているものは、じつはない。あったものは消える。なにかを見ること/なにかを経験することは、すなわち、そのなにかが次の瞬間には消え去ってしまうことを知ること、とでもいうように、あえかな数句によって『フラカン』は始まり、この浮遊的な主調音は一冊を通して鳴り続けます。
〈いま〉が消え去ることでよってしか次の〈いま〉が生まれないとは、この世はなんと儚いものでしょう。大昔から繰り返される無常観を、『フラカン』はフラカン流に繰り返す(に過ぎない)。物語的に幻想的に捉えるなら、ページを捲り終えたとたんに消えてしまうような句集。
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あえかなものの具現として登場するもののひとつが、くらげ。
夢殿やくらげの脚をくしけづる〔p22〕
くらげみな廃墟とならむ夢のあと〔p152〕
途中にもクラゲの句がありますが〔p54〕〔p86〕、「古い頭部のある棲み家」章の最後の句(夢殿や~)と句集の掉尾を飾る句(くらげみな~)が一対として、句集の大きな部分を挟み込むかたち。ここに提示された〈夢殿〉〈廃墟〉のモチーフ/イメージは全篇にわたります。「天蓋に埋もれる家」の「家」や「出アバラヤ記」の「アバラヤ」は主要部品として設計に組み込まれる。
6
『フラカン』の散歩は、ちょっと風変わりな散歩です。この世/あの世、現実/想像がおおむね不分明、歩いていたらと思ったら、どこかを飛んでいたり、消えていなくなったり。
7
『フラカン』に棲む人(≒作者・小津夜景)は、散歩をいっしょするに、とても気持ちのいい人です。ほがらか。モノやコトを見つけて幼児のように駆け寄ったりもする。
鳴る胸に触れたら雲雀なのでした〔p11〕
悲痛ぶって、いっしょにいる時間をつまらなくしたりしない。
散歩の途中には虹が出ていたりするので、歩を進める気にもなります。
ゆく秋の虹を義足に呉れないか〔p29〕
いまはなき虹の画像のおぼえがき〔p49〕
かつてこの入江に虹といふ軋み〔p54〕
消えさうな虹に指紋を凝らしけり〔p136〕
いまだ目を開かざるもの文字と虹〔p143〕
消ゆるなき虹ぞ艫路のその果たて〔p152〕
かようにところどころ虹が配されるのは、作者のサービス。歩き疲れたなら、虹を見て、また元気を出す。
同時に、言うまでもなく、〈消えさうな〉ものの例示としての虹。〈いまはなき〉〈かつて〉付きの虹=すでに過去となった虹。
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散歩の時間はそれほど長く続かない、とも言える。この人は、私たちは、すぐに飽きてしまう。ちょっと休憩。家に帰って、お茶を飲んだり、眠ったり。
けれども、それもまた、というのは、眠ったり食卓を用意したり、あるいは睦言や庭の手入れや、そんなこともまたすべて、『フラカン』においては散歩のようなものです。どこかに住むこともまた、行き先のない散歩の途中です。
9
字を遊ぶ。例えば、
こゑといふこゑのゑのころ草となる〔p60〕
音を遊ぶ。例えば、〈ことば〉は〈小鳩〉に〔p109〕。
先行テクストを遊ぶ。例えば、
夜の桃とみれば乙女のされかうべ〔p27〕
中年男性の妄想・幻想に「されこうべ」を差し出す「脱魔法(disenchantment)」の手際は、あざやか、かつ茶目っ気たっぷり。三鬼、ぎゃふん。
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人であることからの自由。
即興の雨をパセリとして過ごす〔p21〕
視点・視座からの自由。
トナカイの翼よあれがドヤの灯だ〔p90〕
俯瞰という自由とは別に、この句で驚くべきは、俯瞰(神の視座)からくる支配の視点、為政者の視点(当世の俗語に言うところの「上から目線」)と無縁なこと。この句で作者は、むしろ「愛」のようなものに包まれている。「ドヤ」という故郷に帰ってきたかのような。
作者・読者関係からの自由。
『フラカン』の作者は読者を喜ばせようとしません。ここは捉え方に微妙な再考余地を残すのですが、みずからを喜ばせることにしか関心がないようなのです。その態度は貴族的ともいえます。読者にみずからの労役(俳句にまつわる作業)を供する意思がない〔*2〕。
この本に備わる自由さが、どことなく典雅なおもむきを持つ理由はそこでしょう。
そして句集の一部、一連の流れが多幸感を発散するとしたら、それもおそらくそのへんの事情です。自分という読者のためだけにつくられた句群。なんと贅沢な読者=作者でありましょう。
読者/他者の反応や評価を気にかけていたら、自由は生まれなかったかもしれません。この作者は、悪い意味ではなく、読者/他者に対峙する気がない。
語の使用に、また漢詩ほか先行テクストの豊かな参照に、高踏や衒学を感じる読者もいることでしょう。けれども、それは、読者に向けたものではない。ハイブラウを気取る気も、韜晦の意思もない。だから、「捻じ伏せられたい」と願っても〔*3〕、作者は、誰に対しても「捻じ伏せる」気など毛頭ないのです。
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第Ⅲ部にある散文にもすこしだけ触れておきましょう。
「天蓋に埋もれる家」〔p99-〕、「出アバラヤ記」〔p117-〕、「オンフルールの海の歌」〔p145-〕の3章に配された散文、3つの物語は、いずれも、散歩の脈絡に置くことができます。
「出アバラヤ記」は〈庭〉を主たる舞台に、散策的な視線でもって場所と時間を描写。途中、博物誌的な内容が私には興味深い。
「天蓋に埋もれる家」は、理路やら意味やらを散歩する。境界にまつわる物語なのだが、かなりややこしいうえに寓話的(この「天蓋に~」とともに、これが辿る森敦『意味の変容』もまた寓話的色合いが強い)という、俳句的愉悦とは相性が悪い分野の感触をもつものだから、読みに淀みが生じたりもする。
しかし、そこは作者の芸というか配慮というか、口調を他2篇とは変えてあります(なにしろ「あのね」で始まるのだ)。そして、最後はゴシック小説の様相を呈して終わる。
(ところで、いまさらですが、小津夜景という人は、実在するのですよね?)
「オンフルールの海の歌」は、『フラカン』の大団円にふさわしく、開放的で、あかるい。次に出かける散歩のために背中を押すように、「自由」が叫ばれる。5回も叫ばれる。
空想と海鳥と伯父さんとピアノと梨と堕天使とカモメと子供たちとタコとカニと窓の外。この部分は、とりわけ大好きなシーン。
いろいろあって、最後はめでたく。
作者につられて、こちらまで取り乱しそうになるくらいに期待や幸福感にあふれている。
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とまあ、『フラワーズ・カンフー』には、気ままな散歩のような愉しさがあり、そして自由、ひととおりではないさまざまな自由がある、というわけです。
ナイスな句集は、俳句を超えて、書物として、私たちを魅了する。ナイスな書物は、書物を超えて、世界を見せてくれる。これは褒めすぎかもしれないけれど、『フラワーズ・カンフー』を、これまで句集について行使されてきた読解やら評価の因習・慣習のなかで捉えていると、置いてけぼりを食うでしょう。散歩に出るべきです。なにものにもとらわれず、手ぶらで、『フラカン』といっしょに歩く。それだけで、気持ちのいい時間と場所が見つかるはずです。
小津夜景『フラワーズ・カンフー』(2016年10月)
≫http://yakeiozu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_23.html
〔*1〕「従来的な俳句読者」と名づけて気づいたのだが、作者にいわゆるメインストリームという位置づけがあるように、読者にもそれがあるような気がしてきた。俳句の本流をもっぱら眺め続ける読者。さて、私はというと、川にはいろいろな流れがあるので、どの流れということなしに眺めていたいクチ。それこそ川べりを散歩しながら、いろいろな興趣を味わいたい。
〔*2〕読者との関係における小津夜景の特殊性はその俳句経歴によるものとも想像できる。俳人・俳句愛好者の大多数が経験する「句会」での作者読者関係を、小津はまったく経験していない。俳句世間でのカジュアルな作者読者関係なしに育ったという点、奇妙な喩えだが、人間ではなく狼に育てられた子、なのだ。
〔*3〕『俳句』2017年1月号所収の座談会「今年、この俳人から目が離せない!」を参照。
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