2017-02-26

【「俳苑叢刊」を読む】 第5回 加藤楸邨『颱風眼』 観念の実体化 北大路翼

「俳苑叢刊」を読む
5回 加藤楸邨颱風眼
観念の実体化

北大路翼


『颱風眼』は『寒雷』につぐ第2句集。昭和15年刊行なので第二次世界大戦が激化していく時代である。すでに楸邨らしさが随所にみられるが、戦争の混乱が進むにつれて作風も力強さを増してゆく。世の中に対する義憤がそのまま、句のエネルギーになつてゐるやうにも思へる。
十二月都塵外套をまきのぼる
黒松の黒さ秋風吹きこもり
秋風の松風ばかり聴きさぐる
「ひた鳴る」「吹きこもる」「聴きさぐる」など動詞+動詞の複合動詞が目立つ。大半の人は「外套をのぼりたる」と流すであらう。このしつこさがいかにも楸邨らしい。自分の気持ちに適ふまでごちやごちやと言葉を重ねてゆく。そして下5に強い言葉が来ることも注目したい。最後の叫びのやうな言霊は強く読者の心に残る。

よく知られる
蟇誰かものいえ声かぎり
も同様であるが、この句の場合中7下5とつながつて12音でまるごと訴へてくる強さがある。

そして思ひを優先する作り方は内容が未整理のまま人の前に提示される。晩年の楸邨本人は本当はうまいと思つてゐたやうだが、この頃はどう思うてゐたのだらう。整理できなかつたのか、あへて整理しなかつたのか。
寒の木木人の対ふやひき緊る
冬の夜霧あまり短く坂了りぬ
厨さむく相寄るや人言とがり
のやうな句はほぼ定型には納まつてゐるが、動詞も多く切れる位置がわかりづらい。見方によつては三段切れのやうにも見える。はつきり言つて下手だ。

ただ変なところで切れたり、切れが複数あるやうに思へるやうな作り方には理由がある。一句の時間が長いのである。
蝸牛いつか哀歓を子はかくす
つひに戦死一匹の蟻ゆけどゆけど
蟻地獄昨日の慍り今日も持ち
楸邨の句には「いつか」「つひに」「昨日の」など俳句ではあまり見かけない時間の経過を示す副詞が散見される。その副詞が浮かぶことなく成功してゐるのはひたすら一つの対象を追ひかけ続けてゐるからだらう。対象を睨み続ける執念。

楸邨の切れは、一瞬を切るのではなく、長い時間の中の一つの呼吸なのだ。それも深呼吸といつていい。「蝸牛」と「いつか哀歓を」の間にどれだけ深い思ひが込められてゐるか。何度も口に出してみるとその深さが浸みてくる。楸邨の難解と言はれてゐる句も、深く呼吸をして味はつてみると共感できることが多いはずだ。
目が並ぶ台風の夜の軍用車
下悔いんとするか肩うごく
電話室汗垂れ物をいふ顔あり
汗の子のつひに詫びざりし眉太く
人物を描くときは目、肩、顔、汗の子など換喩が多い。動詞はあんだけごちやごちやと使つてゐるのに、名詞になると急に単純化されるのが面白い。単純化といつても、簡易にするのではなく濃縮して絞り出すやうな把握ではあるが。この濃縮具合が過ぎると難解といはれてしまふのかも知れない。
炎天に木は立てり憤るもの目になきとき
少し違ふがこの句の「目にない」も異常な把握だと思ふ。「見てない」といはずに「目にない」といふ表現。眼力の強さが肉体を通して伝はつて来る。

そして把握の異常さは、実景を観念で強引に摑まへたときに発揮される。ここが楸邨のオリジナリティ。観念を実景に同化させると言ひ換へてもいい。目ではなく体で感じてゐることを写実的に写しとるのだ。 
英霊車冬木は凭るにするどき青
しぐれねば火星するどく路地の奥
栗煮えて妻の愉しさ身にひびき
灯を消すやこころ崖なす月の前
「するどき青」「火星するどく」「妻の愉しさ」「こころ崖なす」、いづれも見事な把握だと思ふ。特に「こころ崖なす」の崖は心の中の崖なので、実際にはない崖のはずなのに、実際に存在するやうな崖のイメージが伝はつてくる。観念を読者に実景でぶつけてくるすごさ。
山ざくら石の寂しさ極まりぬ
そして最後に僕が集中で一番好きな句を。下5の極まりぬの強さ、山ざくらからの深い断絶(切れ)、そしてさみしさを石の形や冷たさで具体的にする力、いままでにあげたすべての楸邨の特徴が出てゐる句だと思ふ。

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