【週俳3月の俳句を読む】
見たものと感じたもの
鈴木茂雄
よく、この句はわかる、この句はわからない、といわれる。コトバが記号化した難解句はさておき、ふつうわからない句というのは読み手に責がある。誤解を与えるような表現をした書き手の責任ではなく、読み手に問題があると考えるべきだろう。
詩を読む、ということは思想書を読むということとは違う。ことばの意味をたどり、他者の思考を手がかりに、自分の考えを点検することとは違う。しかし、だからといって、ことばを読みとばしていいわけではない。絶対に読み落としてはいけないことばがある。それを読み落とすと、詩全体が、全く理解できなくなるようなことばがある。俳句の読み方にも通底する示唆に富んだ文章であるが、俳句という短詩形の場合は少し事情が違う。俳句においては一語一語すべてが「絶対に読み落としてはいけないことば」ということになる。散文を読むように読んではならないということ、たった一語さえ見逃してはならないということ、俳句を読むということは、そういうことなのだと、そのことの重要性について、わたしが俳句を読むとき、いつも再認識を余儀なくされている。
(谷内修三著『詩を読む 詩をつかむ』思潮社)
なぜ冒頭からことさらこんな野暮なことを書いたかというと、今回の対象作品として与えられたテクストは、所謂わかる句とわからない句に分かれる作品が多く目についたからである。とくに「奪ひ愛、冬」(榮猿丸)と「けさらんぱさらん」(佐藤智子)の二作品。こんなに極端な例も珍しいと思ったからである。
引越しトラック路上に毛布積み上ぐる 榮猿丸
よく見かける引越しの風景だ。家具を傷つけないために包んでいた毛布が、路上に積み上げられている。ちょうど作業が終わったところ。トラックのそばに人影が見えないのは、家の中でお茶でも出されているからだろう。
アルミ塀鳴る寒鴉飛び立てば 榮猿丸
ひと昔前ならトタン板の塀といったところだが、いまはきれいなアルミのフェンス。そこから不意に音を立てて鴉が飛び立った。不意といっても不意を突かれて驚いたわけではない、ということがわかるのは、「飛び立てば」という表現の仕方に心の余裕が窺えるからだろう。鴉は町でも年中見かける鳥だが、「寒」という効果音がさむざむとした冬ざれの光景をさらに押し広げる。
天窓の落葉溜りや駅舎に日 榮猿丸
「駅舎」というコトバの響きは、ある小さな町の駅の待合室をわたしの脳裡に出現させる。小春日和の日の差す天窓には、風に吹き上げられた落葉が溜まっている。駅は本来ひとが行き交う場所なのに、ここでは時間が陽だまりのように静止している。
道路鏡全面落葉木立の中 榮猿丸
おそらくドライブの途中だろう。山の中腹まで登ってきたとき、急に景色の見える場所に差しかかる。車を止めて眼下に広がる風景を楽しんだあと、車に戻ろうとしてふと目についた。道路がカーブしたところにぽつんと立っている道路鏡。山深い木立の中にある、このミラーの全面に映っているのは落葉だけ。ときおり通る車以外は、ずっとこの落葉を映していることだろう。
ジミ・ヘンドリクスのキャラ弁アフロは布海苔 榮猿丸
「キャラ弁」とはアニメや漫画のキャラクターを卵や海苔やケチャップなど色とりどりの食材で白いご飯のキャンバスに描いた弁当のことだが、ジミ・ヘンドリクのアフロヘアーだと差し詰め「布海苔」だ、という。それにしてもアンパンマンではなくて、こんなキャラ弁を開けた子の反応はどうだったんだろう。
屑籠に捨て風船やなほも浮く 榮猿丸
ガスの抜けた風船が屑籠に捨てられているという。だが、よく見ると、ほんの少し浮こうとしいる。まるで意志を持った生き物のように、微かに動いて、なおも浮き上がろうとしているではないか。
ラジオネーム受験乙女さんにはステッカー送りまーす 榮猿丸
この句は「ラジオネーム受験乙女さんにはステッカー送りまーす」と、ラジオから流れてきたコトバをそのまま書き写したような作品。そのままとは言ったが、この切り口にこそ、作者の表現意図がある。いずれも現代の風景をとらえていて、すべてよくわかる。
わからない句。
けさらんぱさらん黒くない外套を着て 佐藤智子
まず「けさらんぱさらん」というコトバがわからない。と、わたしだけが知らない周知の事柄でありませんようにと祈りながら書いている。
「詩は考えるものでない。考えれば考える程遠ざかって消えて行く。詩は感じるものである。(西脇順三郎)」という手もあるが、知識としてわからないのは読み手の責任だろう。ということで調べた。ウィキペディアその他によると、民間伝承に纏わる話でひとつは動物か植物かもわからない謎の生物だということ、もうひとつはメイクアップブランドの名前「ケサランパサラン」がネットでヒットした。が、こうしてコトバの意味を理解して読み返してもよくわからない。それならやはりコトバから感じ取るほかはない。ふわふわとした白い(「黒くない」と言っているのだから)マントに身を包んだ未確認生物のように、まだ自分が何者かわからないのだろう。句跨りに屈折したものを感じる。ケサランパサランケサランパサランと呪文のよう唱えていると、コトバの響きはやがて意味を宿すことだろう。
芽キャベツや一応触れて下まぶた 佐藤智子
手のひらに収まるほど小さなキャベツ。「一応触れて」は、「芽キャベツ」ではなく「下まぶた」に掛かっているのだが、そこまでの飛躍に場面は一転して、小顔のイメージがクローズアップされる。下まぶたのアイシャドウに触れながら、鏡に映った自分の顔に話しかけているところ、と言ったら深読みが過ぎるだろうか。
春浅しぽとぽととクリームパスタ 佐藤智子
窓辺のテーブルに着いて、田園風景を見ているうちに、口を衝いて出たのだろう。「春浅し」と格調高く詠んだかと思うと、そのあとに「ぽたぽたとクリーム」の滴る「パスタ」を持ち出す意外性。中七から下五にかけての句跨りにアンニュイを感じる。大上段に構えた切字は果たしてアンニュイを払拭出来たのだろうか。
かさばるし役に立たないカメリアは 佐藤智子
一読、女の子がグチを言っているように聞こえる。「だって、かさばるし」と、いつも持ち歩くお気に入りの人形にむかって言う。夕べ、この子と喧嘩でもしたのだろうか。むりやりカバンに詰め込もうとするが入らない。役に立たないものはなんだってかさばるものだが、きょうは虫の居所が悪くてカメリアにあたっているのだ。
春蜜柑そうしてたくてそうしてます 佐藤智子
なるほど、そうしたかったんだ。いいよ、好きにして。そうしたいときは、誰だって、そうしたいんだけど、なかなかそう言うわけにはいかない。だけど、「春蜜柑」ならそう言っても許されそうだ。わがままとは違ういじらしい主張、そんな感じがする。
ブリトーと雲雀の季節切手買う 佐藤智子
コンビニでブリトーを買って表に出た。空を見あげると、雲雀がまっすぐに舞い上がって行くところ。ふと故郷の空を思い出す。そうだ手紙を書こう。(ちょっと強引かな)道すがら郵便局に寄って切手を買って帰った。(ちなみにブリトーって季節ものだっけ。)
ラテ欄に蜂や平気で恋をする 佐藤智子
「ラテ欄」は新聞のラジオテレビの番組欄の略語。いつの間に舞い込んできたのか、その上に蜂が止まっている。切字にしばらく立ち止まる。そういえば蜂も猫も恋の季節だ。人間だって平気で恋をする時代。そういえば、恋ドラマや不倫報道、最近そういう番組がやたらに増えたような気がする。
榮猿丸の句は見たものを言葉にしようとしているが、佐藤智子の句は感じたものを言葉にしようとしているようにみえる。これらわかる句わからない句のいずれにも「感じたものを見たものにする(飯田龍太)」という写生の一表現方法が根底にあると感じた。その飯田龍太が32歳のときにすでに次のようなことを言っている。
今迄、俳句に、どのようなことが詠まれないで来たか、ということを考えることは、俳人として非常に大切なことだ、と私は考えている。この意味で、俳句らしくない俳句、を生み出そうとする努力も、これから俳句を新しくする一つの方法であるに異いない。自作を棚に上げて言うと、俳句らしい句は上手いと思うけれども古い、俳句らしくない句は新しいと思うけれども下手だ、という印象は拭い得ないというのが率直な感想である。
(『飯田龍太全集 第七巻 』角川書店)
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